いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

今読みたいもの

武田泰淳が書いた本と、丹羽文雄が書いた本を全部読みたいと考えております。しばらく文章を書かないうちに余分な語句が多くなってしまった。

会社ではしょっちゅう書き間違えや時空の歪みなどが発生していて、自分の処理能力に自信がなくなってきた。おじいさんになるとボケるという。大体現代では60歳以上の人がボケるのかなと思うが、我が祖母は50代前半ですでに若年性アルツハイマーを発症しており、我が父に至っては50代初めにはもう死んでいたので、体が丈夫とは言えず、さらにその若年製アルツハイマーになってしまうような祖母が体が弱いにもかかわらず産んだのが私の母で、私の母がワインを飲んだりタバコの副流煙を吸い込んだりしながら産んだのが私で、私は私でタバコの副流煙の中で育ったのだし、なんならタバコを食べてたこともあるらしいので、ちっとも体が強そうには思えない。

30年も生きることができたなんて奇跡だといつも思っていて、体が痛んできたとか白髪が出てきたとか言っても、なんだ長生きした後なんだから普通のことだと思っている。身の回りに30年も姿を保っているものなんかないんだから当たり前のことだ。どうせ死ぬ。どうせ死にます。どうせ死ぬことを最近はよく考えていて、そうすると鳥瞰図のように、現在の手元が小さくみえ、山や海のある地形の中の川沿いに立っている自分を感じる。いかに生きるべきか、ということが死ぬからこそ考えるべきことのように思える。自分は聖人にはなれないのだがそれは夫を愛しすぎているためである。夫以外のものがどうでもいいがために、働くこともできているので、社会人の体裁を保っている。夫のことはすなわち生きることであり、生きるために一つの手段として働いている。そして自分の労働のモチベーションは、ただ労働している自分をしていない自分より面白く思える。そして労働さえしておけば、今のところ必要な医療費や食費を稼げており、たまには散歩がてら旅もできるということに尽きる。モチベーションはこんなもので、モチベーションを失わせるということはこの程度の満足も人に持たせないという極めて以上な状態を生み出すことなんだと思う。

 

さて私の労働は月に50時間近い残業を必要とする、所謂「作業地獄」のようなものなのだが、このことを私は大切な恵みだと思っている。作業をする人がいなくなると、この社会は円滑に回らなくなり、金を払ってもサービスが満足に受けられないということになり、社会に諦念が充満し、金を稼ぐ気力も社会から失われ、金の価値がなくなり、労働力、かなり少なくなってきているらしい労働力の集結ができなくなり、どのような企画も機動力を失うことになり、すると企画する人も諦念を抱くようになり、社会は死ぬと思っている。社会というのは、金銭をベースとして運用されている、こういうのを資本主義というんですか?そういった経済活動のことです。なので私は一向に昇進できず、作業をこの先もずっとしていくように思うけれど、それでも満足しており、これを恵みだと思っている。みんな馬鹿にしますけど、こんな仕事自分がやらなくても良いとか、やる意味がないとか、もっと俯瞰する視線を持つべきとか、そういうことばかり言って作業をしない人ばかりではこの世界はダメになるのです。正直馬鹿みたいな作業だと思っても、企画する人がやると言ったら死ぬほど働く、その中で自分の知識も深めていく。そういう労働力がないと困るじゃないかと、たとえ自分がやっていることが頓挫しても、また次のことのために努力するような労働力がないとダメなんだと思う。だがそのような人間が存在できる組織も限られてきていると思うのが今日この頃。またそのような人間に働くモチベーションを失わせない程度に残業代を支給してあげられる企業も無くなってきているのだろうか。人はどんどん減らされている。特に作業をする人。

 

最近引越しのため光回線を解約しようとしたら、全くもって人間と話すことができない。というのは、自動音声から自動音声、チャットからチャットへと飛ばされて、生身の人間と会話をすることができないのだ。10日近く問い合わせを続けてやっと人間と直接話をすることができた。こういったことは、光回線に限らず、社会の様々なところに現れており、不動産管理会社の退去立会も土日はできないです休みだからと言われたり(退去立会は普通に考えれば土日が最も多くなるはずで、なぜならばサラリーマンはサラリーを減らさないために土日に引っ越しをする必要があるからで、そんな時に定休日をとっているのは不動産管理会社として不足だと思うのだが)、自分の仕事関係でも人手が足りず作業が回っていなかったりする。ともかく人手が足りないという、また人手がギリギリまで足りなくなるくらいに、絞り落とそうというムードが最近ある。なんでも定員、定員と言っている。ついには高齢な労働者に、高度な技術を持っているにもかかわらず、「あなたはいるだけで定員を食っているんです。若い人が入ってこれないんです」みたいなことを暗に陽に言っている人もいる。おかしいんじゃないか?人間とは数だったのだろうか。若い人にお金を使わず、老いたものは粗末に扱うという結果、作業のできない管理職や中間管理職だけが残っている。実務のことを知らない人ばかり上司になって、毎日説明ばかりさせられている。それが労働時間を増やす。こんなことがいろんなところで起こってるんだろーと早合点している。

 

ありとあらゆる産業が一回全部死んでほしい。と、ダイハツの不正とか、誰かのセクハラ辞任とかを見て思う。その下で働いている多数の労働者のがっかりした気持ちが見える気がする。もう一度、自分たちの生活のために働きなおそうよと思っている。自分たちの生活のためにこそハードワークしようよと。それこそ焦土と化した国をもう一度作り直すようにして。自分は実は働けばこの先も食っていけると思い込むようにして働いているけれど、そうじゃないことはわかっている。システム自体が狂っている。だから、本当は物理的に社会を一度全て破壊したい。

 

と、こんなわけわからない前後がどう繋がっているのかもわからない文章を書いているわたしが転職を繰り返しながらも今年でなんと5年も社会で働いているようなので、みんな希望を持ってくれ。今の今まで餓死していないし、借金をしていない。

 

何が言いたいのか自分でも分からずこの文章を書き始めたのだけれど、つまり自分の家で旦那が飼いたい猫をかえないことが悲しいんだなと思った。なんなのだこの労働者は。