いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

幸せそうな人はどこにいるのか

働き始めて全然幸せそうな人に出会えない。自分ほど幸せそうにしている人がいない。どうしてなんだ。とはいえ、働く以前に幸せそうな人にあったことがあるかと言われるとよく思い出せない。いなかったのかも。自分の立場に納得感を持って生きている人ならいた。私には他人の幸せそうな様子を感じ取る力がなく、逆にみんな不幸に見えてしまう病気なのかもしれない。

 

随分何回も考え直しているが、東京近郊で中古マンションを買うのは私にとっては悪手だということを思った。東京に永住することはないとすると、素人の買い物で買値より高く売れることはありえないし、家賃より高くつく可能性もある。東京はいずれ離れることになる。

 

そもそも東京に来たのは勉強をするためだったのではないかと思っている。ならばためらうことなく東京でしか通えない専門学校等に通学すべきだと思う。しかしそれと両立できる正社員の仕事は見当たらない。

 

しかし両立というのは何なのか。正社員として出世することが目的ではないのだから、首にならないギリギリのところで定時退社して学校に通えばよいのではないかと自分に問う。

 

属している社会への後ろめたさなどあるけれど、それと自分の人生のどちらが大切なのかといえば私の人生。やったからと言ってうまくいくとは限らないけれど、やらないで親と同じように生きて死ぬのは嫌だ。上司を見てると死んだ親を見てるようできつい。私は親が先に死んだことで、予め彼らの死を見たような気がする。

 

職場では新しく入ってきた偉い人を作業攻めにして失敗したら、「だめじゃないか!」ってもっと偉い人が詰めるというのが流行っている。一体どういうことなのだろうか。作業攻めにされることを想定している人じゃないのに。偉い資格もある知識もある人に動作性IQの低さを詰めるというのは全くお門違いなことだ。付き合いきれない。仕事はスポーツではないのに。偉い人がやめてしまう。こんな不可思議なことを繰り返しながら毎月何十時間もお互いに残業して、消耗して体調を崩してしまうのはアホの所業という感じがする。


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