いのちばっかりさ

生きている記録。体を鍛えて学び働きたい。

つげ義春ってちいかわみたいなやつだろう

つげ義春ってちいかわみたいなやつだろうと思っている。両方、うまく生き延びてまわりのものが死んでもずっと長生きしているんだろうと思う。

 

山崎ナオコーラのエッセイを読んで、最初は共感していたが、100ページ目くらいまで来て、急に嫌になってきた。男女の役割分担とか価値の出し方の違いに囚われているのは世間でなくこの人の方だ。人間の方を人間が守ろうとしてるなんてヘンテコなことだ。自分の方は自分で守るしかないものだ...などと、嫌になり、私はどんな女でも嫌いなんだろうか。女の人でいいな、こうなりたいと思った人がこれまで1人もいない。ただの僻みだろうか。

でももし山崎ナオコーラという人が本当に性別によって人の役割を判断していないなら、この人はかなり周囲から言われることを気にしすぎているせいもあり、周囲の人から言われたことをいちいち繰り返して唱えた後で、「それは違う」という自分の意見も書かないと、何を書いているか伝わらない世の中だと思ってこのように書いているのだろうか。

そんなこと書かないで人に伝えていくことはできないのだろうか?と、思って現在のこの人の情報を見たら「人の数だけ性別の種類がある...」みたいな記事がいくつか出てきた。毎日働いてる方からしたら、それはそうかもしれんが、忙しい時は踏み込むのさえ躊躇われるそのような界隈に行かれたとは...と私は思ってしまう。そういう感じなので、わざわざ何を言いたいのか述べなければならないと判断されこの本が書かれたのだろう。この忙しい世の中で、少なくとも一番述べたいことを印象付けるために...とはいえこの本は、深沢七郎の「言わなければよかったのに日記」を読んだ時みたいにかなり「わかる」という感じはあった。大体夫が主夫だと周りから言われることはこんな感じだよなと。

ちなみに私は「あなたが大黒柱ってわけですか!」と言われたら、「大黒柱は立派な邸宅にあるもので、こちらはあばらやなので爪楊枝くらいの役割しかしてません。」と答えています。そのあと「風が吹けば飛ぶような〜」と笑いますが、本心ではキレています。俺に家なんかねえんだよとね。

 

 

 

 

 



 

休みは昼まで寝る

休みは昼まで寝ている。昼まで寝ることが必要な気がする。そしたらどんなしごとしたらいいのか。ティーコゼーの型紙探している。簡単すぎてどこにも載っていない。こういうものの型紙が大真面目に欲しいのだが。

 

感情や思ったことや見たことをそのまま記載する文章がブログとして公開され出版され、それを見て読んで買って楽しんでいる人がいる。だんだんそういう方向に私のブログも近づいているように思うが、それで良いのだろうかとふと思った。もっとちゃんと推敲して文章を書き、出版できるレベルまで高めてゆきたい。ブログが汚物になって10年後悲しむのをやめたい。何もかも書いてあるようで一体私は何を書いていたのかと思うのはやめたいな。そのためにはもっと真剣なインプットと、毎日もう少し考えることが必要で、取り組んでいく必要がありそう。

次の恋だと

「子どもを持つと、一人で生きるよりずっと多くの出費がある。それなのに、収入を得るために使える時間は一人のときより減る。これ以上、犠牲にできるものがない。」

この人は、多分私が子供を持ったらこうなるだろうと思う状況をその通り書いている。家族についても、自分自身についてもこんなに苦労しながら、それでも今までコミュニケーションを取ってこなかった人とコミュニケーション渡ってるのが偉い。すごいと思う。

家族がうまく行かなかったということは、ずっと、私についてきている。家族についてうまく行かないことが起きて私がその場面にいるときっと自分が悪いと思う。誰が悪いと言い切れない場合でも、自分は家族がうまく行ったことがないので、自信がない。

旦那のお母さんから、金属の価値のために昔買ったであろう指輪(龍のデザイン...)を結婚指輪として使うようにという話でもらった時も、私の好みのデザインではないし(竜のデザインの指輪を左手薬指にはめて仕事に行くヒトがいるだろうか)、値段がかいてあるから、金属の価値で買ったものなのだろうし、私に渡すより、生活の足しにして欲しいと思い断った。その結果不和が起きたのだが、そもそも指輪を私に直接ではなく旦那経由で渡してくる意味がわからないし、溶かして好きな指輪を作った方が良いのか、そのまま身につけるべきなのかも言及されていない。そして結婚指輪をつけてないなんて恥ずかしいだろうからとか言及していたらしく、結婚指輪をつけていることとつけていないことは、1か0の記号の問題だけであって、それを恥ずかしいなんて思っていないということを心の中で100回くらい唱えた。

結婚を形にして指にはめるなんて変だ。それに私たちの結婚を形にできるような既製品の指輪なんて存在しない。私たちは死んだら焼かれて骨しかなくなってしまう。それが私たちの結婚で、私が愛しているのは指輪なんか関係ない旦那そのものである。

でもまあ私が悪いんだろうと思う。うまく吸収して、破壊的にならないようにできなかったということが。自分の行いが人に与える印象を調整できなかったということが。

喋りすぎることの害悪を相手から感じるのに、私も同じくらい喋ってしまった。

 

この本に書いてあることはよくわかる。家族だったみんなが未来に進んでいく。しかし私だけが、家族に踏み躙られた時間を生きている。目が座っている。目を離せないで。

もし母親が新しい恋を始めたらどうする。私は吐くだろう。泣いてしまうだろう。それは金もなくてバイト先にも舐められて時給を知らされることもなく、また街に出てティッシュ配りをして騙されて給料をもらえず、本屋さんでバイトしても疲れ切って終わってから質の悪いものを食べて体調を悪くし、家から学校に行くだけで疲れ切って、家族のために?家を掃除し家事をして、本の内容を頭に詰め込む暇もない、絶対に頼れると思って本当は頼らなくて人生を沈没させるような間に合いたくないという警戒、他人から見たらその緊張さえもおかしく、育ちの悪さと思われそうだと、恐れている、その惨めさをまだ心に飼っている自分のそばで、恋愛を始めることだからだ。子供じみているが一生許せない。


辛かった苦しかった。だから頼れると思っていたら、全然世話してくれない、みたいな感情には絶対になりたくないし、そうならないように働きつめに働きたい。世話してくれるだろうなんて他人に対して絶対に思いたくない。多分これも私が子供を作りたくない理由の一つだと思う。どう考えても1人では無理だが、他人が助けてくれると思いたくない。そういう明文化されていない期待みたいなものは、他人にかけるのもアホくさく、何かの決断の前提にするものではない。最悪の状態が現れた場合でも、自分で自分をなんとかしないといけない。健康でいたい。本当に心から望む。頑張りたい強くなりたい。ずっとそう思っている。

 

今日はお祭りで、旦那と二人でお祭りに行けるのどかさと安心と不安、将来に向けてもっと強くなりたいという圧力を感じている。獅子舞踊を舞いたい。すべて舞い上がるように舞いたい。お母さんの新しい恋人を見るなら、獅子舞のまま見るようにしたい。そして獅子舞のまま家に帰って、吐いたりせず、家の窓から畳を全部剥がして投げたいよ(畳ないけど)。

 

あれだなーでも惨めさというのは違う状態を知らないとわからないものだから、知ってるだけマシかな。

読んでる

博文館新社|中型自由日記

この日記帳が欲しい。どこで売っているのか。猫は家の裏に埋められた。猫塚。

東京杉並区に山椒魚の墓がある。関東大震災で焼け死んだ山椒魚の墓だ。どんなひどい時代になっても好きなもののために墓を作りたいな。

 

死んだと聞いた直後は猫の声がたくさん聞こえてくるように感じた。だんだん聞こえなくなっている。なのに近所の猫に挨拶したら、いつもは鳴かないのに、にゃあと三回も鳴いた。私の心がわかってるんだろうか。自分より早く死ぬものと一緒に暮らすことは人間にとって重要なことだと思った。ブログとは別に一行日記みたいなものをノートにつけていて、こんなことがあるともっと手書きの非公開の日記を書きたくなって日記帳をもっとたくさん書けるやつが欲しくなってきた。

猫が死んだ晩には雨が降ったとのこと。10年も生きてた。もうよろしかったのだべ。

 

 

読んでいる。

 

 

 

猫の死

猫の死。猫の声が聞こえてくるようで悲しく、嫌になってきて海を見に行くと大津波が来て、私たち2人も帰らぬ人となった。この日記は違う世の中から書いている。南無阿弥陀仏。私たち2人以外の人間がみんな死んで欲しかったのだが(正確には消えて欲しかったのだが)、私たち2人が消えた。晴れの日にかつこれほど暑い秋の日にいなくなりなきねこの声聞く。クリームパンを何個も連ねたような変な雲が出ていた。

猫よ遠くから別れを告げることになろうとは。人間なんかはけてしまえばいいのに。そうすれば夜通し歩いて会いに行ったのに。私が猫の死をまだまだと本気にしていなかったせいもある。変な言い方をしてくる人間なんかみんな死んでしまったらいいのに。

買ってるマンと夜のなか卯

おかしいくらい毎日のように本を読んで買って読んで買って読んで買っている。多分食い潰してしまうだろう。死なずにいればいいや。とは言えもちろん本を買う時は、これで何が食べられるかを考えて、頭の中に並べる。別に買い溜めるところまで行くわけじゃないのになぜ食べ物のことを気にするか。

旦那が月見バーガーを食べたいというので出かけたら、月見バーガーは夜はやっていないので(月見が夜売ってないってどういうこと?)、他のものならいらないやと歩いていたら、なか卯が空いていた。なか卯に2人で入るのは初めてで、私はなか卯では一番安いうどんしか食べたことない。多分三百円以下だったはずである。690円とかのメニューを頼むのは初めてだ(というか今はもう三百円以下のうどんはないようだ)。

すだちがちゃんとついていて、絞って食べて美味しかった。夜のなか卯自体初めてきたかもしれない。学生みたいで嬉しい。学生も数組来ていた。

 

 

 

 

読んでるマン

図書館で借りて読んでいるが、ビニール貼りされているので、表紙を直に触れない。直に触りたい本を作るというのはすごいんじゃないかなと思った。シナノ書籍印刷株式会社というところで印刷製本されてるようです。

昔日の客

昔日の客

Amazon

気分悪いことでも自分が考えたことを書くのはブログの良いところだと思っている。

自民総裁選とかなんとか言ってるが、世襲みたいなのはみんな嫌いだ。親と同じ職業をするなんて庶民の仲間ではないとか無茶苦茶なことを言ってみる。

 

無茶苦茶言っても良いのがブログなのだ。

 

それとは別の話でこのブログは好きだなと思います。今日までも更新が続いていてよいですねー。すごいですね。

玄関風呂の行方 : ムッシュKの日々の便り

 

歩きながら考えたことなど

病院で血液検査をすることになった。飲んでいる。漢方薬にはカリウムを体から少なくしてしまう副作用があるらしく定期的に検査する必要があるそうだ。思いがけず4500円ばかりを支払うようになった。私はこの4500円を急に請求された時わたしに、1人の子供があったらどう思っていただろうと思った。私の現在の生活から行って子供がいる場合4500円の余裕はないだろう。余裕がないというか、4500円は大金だと思っているのだ。その時に4500円を払うのをやめて、血液検査をしないのかそれとも子供に与える食事のいちぶを削減し、4500円を払うのかそのような考えを起こしてしまうと思うと言うよりは、そのようなことを考えないで暮らすことはできない。それは別に私が貧しいとかそういう話ではなくて、これまで生きてきた時代の中の金銭感覚とも言うべきものが、私にその子供と血液検査を天秤にかけるような感覚を、4500円と言うのは大金だと言う考えを起こさせたのだ。私は顔面に照りつける太陽を感じる。この太陽も、光もいつか私に皮膚がんの治療を強いるものになる可能性を感じる。

私には子供がいないが、そのおかげで夫と自分自身の医療費心配をする事は無い。心配しないわけではないが深刻ではない。そして私たちには子供がいないので、シングルインカムで生きていくことができる。2人で静かに話し合う時間を持つこともできる。常に義実家から何か文句を言われているが、子供がいないからこそ、義実家をもし失っても大丈夫であると言う自信がある。私には親がいないのだが、私には子供がいないおかげで父がいないと言うことを2重に苦しむこともない。どうして父は死んだのかと言う問いには私は答えられないだろう。私自身がころすべきだったのである。そういった答えに窮する問いを無限に問いかけられることもなく、静かな日常を過ごすことができる。不在を感じる事はあったとしても、実在する子供の存在を感じること以上に苦しくは無いのである。私はケチである。ケチであるから、人生のステージを登ると言うからには、さらに豊かになるのではなければならないので、子供を作ると経済的に余裕がなくなると言うその大前提こそが私には受け入れられないことである。私はケチであるので豊かになるのでなければ幸せになれるとは思えない。豊かになる事は金だけの問題ではない事は承知している。しかし東京で生きているからには、豊かさは金に依拠している。であれば東京から出て暮らしていけば良いのではないかと考えるが東京から出るとシングルインカムで暮らしていけるような環境があるか。また女が働き男が家にいると言う少しだけ珍しい、その生活形態について他人に興味のある人間に色々と言われるのはごめんである。全てが面倒な香りがする。いかに私が強運の持ち主であるとは言ってもここを離れれば、二度と同じところへ戻ることはできない。どうて私は自由に生きていくことを許されないのであろうか許されないのであれば、地方に行く意味がない。もし人口が今の1000分の1位になり、過疎地は本当に誰もいないと言うような風になれば、私は喜んで地方に行くだろう。よくアルバイトでオープニングスタッフにしか参加しない人がいるそうだそういった感情に似ていると思う。出来上がった人間関係や固定されたお局などの中で暮らしていくのは大変である。人間たちのこれまでの状態を失いたくないと言う欲望と戦うよりは、大地や自然と戦った方がマシであろう。

 

私は生落花生を買い、イチジクを買うの我慢した。もし子供がいたなら、イチジクのみならず生落花生も断念したであろう。正直私は昔から書くことと食べること以外にはあまり興味がないのである。もしもう一つ興味があることがあるとすればそれは移動することである。おそらく私の欲望は著しくさまたげられることになるであろう。

 

子供を育てるためには、自分で子供を産まなくても、養育里親などの制度を使って子供を育てられるわけなのだが果たしてその里親になれるかと言うフィルターをいかにも曖昧で、いかにも自分勝手の人物たちが支配しているように感じられる感じられるだけなので、実際に取り組んでみればしっかりなれるかもしれないのであるが、親になるための講習などを何度も受けさせられるらしく、私はそういったことではないことを望んでいるという感じがしてならない。毎日暑くてならない。だるくても治らない。これは私が恐らく体のどこかを壊しているからなのだが、もし出産なると言うことに取り組めば。何が壊れるかわかったものではない。この夏は暑かった。あと何度夏を越えられることか、わからない。

歳をとって、もし突然に金をどんどん失っても子供を育てる事は良いことであると言う思想が自分に芽生えたらどうしよう。自分がもし出産で死んでも子供が出てくる事は良いことであると言う思想が生まれてたらどうしよう。もしも取り組めないと言う年齢になってから夫に子供が欲しかったんだよ。本当はと言われたらどうしよう。子供はあれば消せないしなければ生み出すことはできない。これは一般的な受験や勉強の考え方とは違うのだ。受験であれば高い場所を狙っておけば、低い場所に行くことができる。勉強ならば、やっておけばやらなかった人と同じ人生も送ることができる就職面接であればたくさん申し込んでおけば落ちても受かったところの中から選べば良い。しかし子供はもし取り組んでできたら消すことはできないのだし、大昔は別にして何か障害のある状態で生まれてきたとしたら、自分はとても育てられないと思ったとしても、消すことはできない。こういったことを差別だと思うのだが、差別と言うのは一定の場合には、差別する側の人間が生きるために、仕方なく身に付けた反応であることもあると思う。

4500円が自分のために払う場合だけでなく、子供のために払う場合もあるだろう。4500円を大金で出すと大変なことになってしまうと言う感覚は、私の人生がそうさせたのである。払える替えのキャパシティと言うものが、人それぞれにあると思うそして子供を育てるのにかかるお金をそこまで下げてやることができなければ、やはり心理的障壁を感じずに子供を作ることはできないのである。ただでさえ子供を作れば、自分の体が損壊されるかもしれず、仕事にも今より苦労しないと取り組めないかもしれないのである。コロナウィルスや高熱にかかるだけで、しばらく後遺症ができるような脆い人間であるのにそのようなチャレンジはちょっと難しすぎる。

 

自分はあっという間に子供を作る人たちに対してただ恐れ慄いている。35年ローンを組むことにも恐れている。自分は戻れないことが怖いんですかね。それならそうと言えばいいと思うがそうではない。自分は戻れないことが怖くて、もう戻れない波の中に飲まれていて悲しんでいるから、この勢いを出産によって加速させたくないのである。毎日が飛ぶようにすぎて行くようにはしたくない。言葉を一つ一つ交わして大切に生きていきたいのだ。

 

やはり音声書き起こしで書くと文章は面白くない。変に追い詰められたような文章になってしまう。生落花生は40分茹でたら茹ですぎで、多分30分でよかったのだ。でもおいしかった。

 

自分がいかに食べることが好きかということは最近撮った写真がいかにも嬉しそうなのでよくわかる。

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家出

夫の実家の家の猫が家出をし、帰ってきたものの、夫が今度は家出をし、私は家でこの本を読んでいて、一体何のために会社で仕事をして、こんな築年数の浅めのアパートに住まわされているのか、それは延命だけど、夫が喜んでくれないならなんにも楽しいことなんかありゃしないと思っている今この頃であった。

夫の家の猫が家出をして、もう帰ってこないから死んだかもしれないと義母が泣きながら電話してきた時は流石に仕事から帰ってきて疲れてるのにやめてほしいと思ったが、夫は多分普通に気の毒に思っていたのだと思う。私は誰であれ自分の悲しみや苦しみを人にぶつけて、電話で泣いたりして、そういう末っ子的な振る舞いは苦手。

 

 

人とは違うこと

人とは違うことを選ぶことは自分には普通のことだった。しかしそれを、そうでなければ生きられないわけではない人に強いることは、自分が選択した結果を間接的に受け取らせるだけにせよ、無理矢理な感じがするものだ。

私と一緒にいることを選んだために、そんなことまで選ぶつもりではなかったはずである。