いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

文章を記憶されたい

文章を記憶されたいと思うけれど、わざと記憶されるような文章をキャッチフレーズみたいに考えて自分でも記憶されるようなのは嫌だ。

 

また仕事で書く文章はできるだけ頭にこびりつかないようなのを書きたい。私自身仕事で読んだ言い回しがずっと頭の中で回ってしまい、サウナに駆け込んで水風呂と何往復もして止めるみたいなことを今までやってきた。他人にそういうことはやってほしくないなと思う。できるだけ不自然な点や記憶に残る点のなきように書きたい。

 

母に、仕事とプライベートの切り替えについて聞いたところ、なにか旅行とかするとき、「ここで楽しんでおけばその後のパフォーマンスがめちゃくちゃ上がる!」と考えるようにするんだそうだ。なるほどだなあ。私の世の中の出世する人に対する違和感そのものの濃縮表現だと思った。

 

仕事の悩みは人格に直結した悩みなのに違いないので、それを忘れることはできない。それでも今を楽しむことで、さらに仕事にコミットしようという前向きな気持ちがあるんだな。わたしはそもそも単に仕事がとても嫌いなのかもしれない。これができる人間と比べるとあまりにも仕事が嫌いすぎるように思う。

 

人格や思想、特性に関して密接に関係する仕事の悩みを持つ人間としてときには旦那のそばにいながら、楽しむときには「ここで楽しんでおけばそのあとのパフォーマンスがめちゃくちゃ上がる!」と思う自分としても旦那の隣にいられるだろうか?それは欺瞞すぎやしないのか。自分を見てくれる人がいる場所で、そういうよくわからない、分裂した精神状態でいることはどうなんだろうか。一貫性を持って死ぬまで悩み抜き、人のためにも社会のためにも、金に対するときでさえ、そのとおりに取り組み、その問題を作業を通して解決していこうとしなくて良いのだろうか……。

 

仕事は仕事で(あべこべのような気もするが)本題は自分がいかに生きるかということじゃないだろうか。その段階を超えて仕事のパフォーマンスをあげようという気になれない。労働時間を減らす意味でのパフォーマンスは前向きに考えるが、さらに仕事を抱え込むためのパフォーマンスのために楽しい休日を送るなんてよくわからないよ。

 

単純に自分が被害者であったならと思う。けど単純な被害者はどこにもいない。どんな事象でさえ、自分のせいなのだどこかしら。

雨が降り続いてぶどうが腐ってしまうことも、祖父が死ぬことも、世界のどこでコロナに感染した人が死ぬことも。

 

生物の中で最も賢いと言われる生物でありながら注力しないことでできなくなってることが多い。何故か無為に過ごしている時間が多いことに気づいたらそれが疲れによるものだと思うし、労働時間は短くなるべきだと思う。