いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

枕カバーを買った

色々な枕カバーがあったのだが、枕は寝るためのものだからできるだけ落ち着くものを選んだ。実際に枕にかけてみて、かなり気に入っている。今まで二人で2枚の枕カバーを使っていたので、洗濯している間は使えなくて、天気のいい休日に枕カバーを干しながら昼寝みたいなことができなかった。これからはそれができる。

養子と暮らそうと望んでいて、それは子供がいるのといないのとでは人間の発言に勝手に凄みが出ることもあり、いいなと思ったからである。かといって自分で子供を産むのは変化が一度に起きすぎるし、仕事も休まないといけない。仕事を休んでも短期的には大丈夫でも、休んだら二度と戻らないだろうって気もしている。

そういうふざけた理由で養子をもらったり預かったりするなんて、みたいなことを言われるかもしれないが、なぜ他人にそんなことを言われるのかが不明である。と考えるしかない。生きている人は何となく死ぬよりはいいているんじゃないのと思うわけで、何となく子供をもらう人がいてもいいし、他人の何となくに左右されるのが人間で、何となく子供をもらう人もいれば、何となく子供を産む人がいて、何となく自殺したり、何となく悲しい人も嬉しい人もいて、何となく外出する人もいれば室内で遊ぶ人もいる。

人が何となく生まれて死んで生まれてくるのが普通のことで、何となくのかたちが人によって違うだけ。色々な制度を作ったら、何となく何かをするということが難しくなっていて、何となく結婚とか、何となく仕事を休むとか、なんとなく返信しないとか、できにくくなっている。

美人なエッセイストが嫌いで、それは何でなんだろうか。私は何となく養子もらいたくもない気もしていて、それは真面目に考えていないわけではなくて、これ以上の別れを繰り返したくないからなのかもしれない。そして第三者の存在によって一番大切な旦那との関係性が壊されてしまわないか心配しているのかもしれない。ある程度の不在を抱えている自分自身が好きで、「寂しさに世の中を照らしていく新宿とおい海に水光る時」という気持ちなのかもしれない。

子供がいない人生は一瞬の灯火のようなもので、後に残るものはない。でも子供がいても最後はただの火の玉になって一瞬に感じるかもしれない。灯火の中に入るものは旦那と私だけで良いという気もするのだ「岩の裾二人で冷たい雨を集め灯火になる今一瞬の夜」という感じなのかもしれない。

今住んでいる家はあまりにも音がしなくてつまらない。前に東京で住んでいた家は、ほぼ外気のような隙間だらけの部屋で(住んでいる時は面白いことに全くそんなことを考えていなくて、ただ自分の家はくつろげる家だと思っていた)、朝は新聞配達の音で目覚め、犬の走り回る音を聞き、雨は部屋の中にいるのが嘘のように家を包んでいた。

今住んでいる家というのは借上社宅で、築浅でとてもいい家なのだが、私はあの頃の旦那との生活がひたすら思い出される。正直戻りたいのかもしれない。でも戻ったら旦那の健康は損なわれるので、行けるところまで頑張るぞと今日も勉強、邁進の日々である。「あの家でちゃぶ台にしていた机今は君のモニター台に」という感じに生活が向上したのである。しかし誰もが働いても豊かにならないこの時代に、ただ目眩しを食らっているだけなのは明らかで、私は乞食していても本当は何ら可笑しくなかった。

 

私はやっぱり司法試験を受けるべきなのではないかと思う。今の仕事は私にはおかしいように思う。