子供ができたら子供のために働かなければと思うようになると予想できるけど、それは自分にとって幸せじゃないと思う。ただ二人の人間が好きで一緒にいるようになってその生活を好きだから維持するために働くというのはわかる。でもそれによって子供作るとか、子供できたから一生懸命働くとか仕事やめられないとかもっと給料を上げるよう努力するというのは嫌な気がする。どうせ死ぬのに、他の人が持っているものを自分も得たいと言うような感覚で子供を作ったり、他の人から子供はどうするのだろうと思われないようなために子供を作ったり、いないとそのうち後悔するだろうという理由で産もうとしたりするのはおかしい気がする。自分は好きな夫でさえ静かにしてほしいと思うことがあるほど過敏なのに、子供をちゃんと育てられる気がしない。親がしたように叩いたりしてしまいそうだし、施設に預けようと思ってしまいそうだ。そもそも家に帰りたくなくなり、家という存在と旦那さえも一体化してしまい、家に近づきたくなくなりそう。私は家族がほしいのではなくて旦那と毎日話しがしたかったんだと思う。
これを読んだら嫌な気持ちになるかもしれないけど、直球なことを書けば、女である私にそういう行為をして私が子供を産んで、それの面倒を見て育てていくというのはなんか気持ち悪いと思う。生まれた子供は野に放つと言うならそのほうが自然な気がする。単なる行為の末に生まれたものを、そういう成り行き的なものにも関わらず責任を持ったり、他人の子供と同じように振る舞わせたりすることが普通にきつい。
人間の振れ幅なんていかに自由に振る舞ったところでたかが知れていて、自分の子供ももし生まれればその線のあたりをそう外れずに行きていき、死ぬのだろう。
自分の人生をなければよかったと思うわけではない。ただまた新しい命を残してこの人生を終えて、自分のあとに自分の子孫が残されることを思うと死にたいくらい嫌になる。自分の体が老いて、子供の不在をいつも抱えて死んでいきたいようにも思う。
私は自分のために誰かが苦痛を我慢して生きているということにうんざりしている。子供の時からいろんなことを自分のせいにされて、お前のために頑張ってる我慢していると言われてきた。私は、本当にうんざりしている。誰かに苦労されるくらいなら自分が苦労したいくらいだ。けど誰かにそれを悟られたくない。
自分の子供が生まれるとなれば、その存在のためにいつかは、無理をするときが来る。そのときに自分は子供を自分の苦痛の慰みにしないのか。子供を作るなら余剰資産を積立投資に回すように、切られても痛くない尻尾を預けるようでないとだめだと思う。私は社会的・経済的・体力的にその域に達していない。
今日旦那と写真を取られたら私は頑張って強そうに振る舞っているように写っていた。私にはわかった。これは不可能と不自然を写しているということ。そんな幸せそうに見える幸せのために体や精神を使ってはいけないということを悟った。
親と同じ道を行こうとしていた自分に気づいた。新しい目標をいつも設けるのではなく、本当に必要なお互いだけを大切にすればよいということを思っていて、もしいつも目標が必要なのであればそれはもう私が求めた関係ではないと思う。年老いたとき何も持っていなくて、侘びしいと思ってもいい。侘しくても梅も桜も咲くだろうし、自分の子孫がこの先誰もいなくなっても梅も桜も咲き、風が吹き雪が振り、何者かの命は続いていき、誰かはみかんを食べ、誰かはゴミを捨てて朝が来て夜が来る。そういう世界において私は自分の子孫を残さないことを無意味に惜しみたくはない。
子供ができたらどんな名前をつけたいかと考えたとき「千代火」という名前にして、ずっと続く火のように大切に守りたい。消えてしまわないようにこれは火なんだと自分で忘れないようにそんな名前にしたいと思った。思ったとき、これは大きな自己犠牲がきっと伴うことだろうと思った。そういう存在としてしか子供をとらえられない自分にも気づいた。自己犠牲の苦痛の中で旦那を見失い、話をすることもなくなって、いつの間にか旦那が死んでしまうようなことになれば、全く無意味で正反対なことのために人生を費やしたと言わざるを得ない。
例えば旦那が将来痴呆症になって私のことを何もわからなくなり、私のことを知る人もいなくなったとしても、一人で介護をすることになって電話をする相手もいないとしても、そういう環境が人から見れば不幸であるとしても、私の人生の成就として、最高のものではないか。
私のことを誰も知る人がいなくなったとしても、春は来て草はゆらぎ川は流れ鯉は泳ぐのだから。
とはいえ正直子供というのは作ることを考えても死にたくなるし作らないことを考えてもなんか微妙な感じになるトピックだ。大きな視点に立って考えれば、これは「私は人生において必要なものだけを得ようとするのか、それとも必要でなくても時期がくれば得ようとするのか」という大きな命題にも結びついているのだ。