いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

ディオティマ

優れた人間を生んだ親という理由で後の世で崇められるものはいなく、立派な成果を残した本人に人々は殿堂を建てるのだそうだが、後世の人たちが殿堂を建てたところでなんだろう。この世というのは何なのだ。後世というものは存在するのだろうか?私が家庭菜園でししとうを育て、その種を取り、また来年播き、ししとうを取りまた種を取りまた次の年播き、食べてまた種を取りまた……

そうしているうちに私は死んで、噂によるとまた世の中は続いて行き、私の子供であれ他人の子供であれ、新しい子供が生まれ、ししとうがまた愛されれば種は継承されてゆく。

 

しかしこの世は私の夢なのではないか?一生が終われば夢として消え去ってしまうのではないか。歴史あるものとして眼の前にある橋や他の建造物や文化というものが本当に歴史とともにあったものとはわからない。トゥルーマン・ショーという映画のように全ては設定なのではないか。

 

それにもし本当に世界がこの通り過去も未来も現在も含めて存在しているとして、後世の人が殿堂を立てたことで何になるのだ。私は自分のため、快楽のために何回もブログを書いたり短歌をやったりする。自分が考えたことを残すことによって事故の同一性と連続性を感じているのだろうか?

 

もっと子供が大量に生まれ、建物も激しく建設されるようであれば、この世の中の同一性と連続性を感ぜられるのだろうか。私の視野は見れるだけしかないが、いつも住居を変えているせいか、必ずしも同じ世界に生きていないような気がする。そして戻ることは決してしないから、いつも前より良い方へ行くという確信を持っているから、引きちぎられて航海を続けている。しかし陸を離れるときのテープの色とりどりの色を私は覚えていて、たしかに切り離されたこと(もしくは切り離したこと)は覚えている。いつも環境が変わるときは神経が麻痺したようになり、麻酔状態で大きく切断する。

 

寂しさに 疑うだけの 雷鳴ローソン 柏の葉まで 流れる川面