いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

「生活できる」

最近仕事について無力を極めており、仕事から離れたしと思うものの、自由に離れると今度は資金の流れがスムーズでなくなるので精神的葛藤を起こすことがありそうで、とりあえず無力感がありながらも仕事に行ってみるかという気持ち。

 

なんというか、正しくないものを何とか正しそうな様子に押し込め、その人のせいでないものをその人のせいにしたりするお仕事が多分に含まれていて、やらなきゃいけないんだと後ろに立たれてやるけれど、やらなきゃいけないと思えない。

 

こういう不純な仕事は仕事全体から見ればかなり小さな部分に過ぎないのだろうけど、下々の作業者(事務員)には「一事が万事」という感覚が染み付いており、それは作業こそが私たちの仕事のメインということもあるけれど、不純な処理をさせられるおおもとの方針とか、一番の目的ということを全然知らされていないから、自分の作業を正当化することもできず、できるだけ触れたくないという気持ちしかない。

 

上司に後ろに立たれて、こういうことができる事務員が良い事務員なんだ、誇りに思っていいなどと言われて、すごいストレスを感じている。私の信条に反する。上司に一度でも給料を上げてくれとか昇進させてくれと具申したこともない。またそういう欲も本業に対しては持っていない。だからただ一緒に働く人のやりがいのある仕事の環境を作っていきたい。それなのに、反対のことをやっている。私はそうじゃない。そういう風には考えないと思うようなことばかりやらされている。単純に言えば、仁義を通していない。自分にそういう癖がついてしまいそうでつらい。もともと私にはたぶん生育環境によるものかもしれないのだが、虚言癖がある。それもその場の受難を回避するために自然に脳がスライドして事実とはずれたことを言ってしまうみたいなものだ。そういう理由で、私は詩を書いている(事実とずれたことを人に迷惑をかけず展開するため)部分もある。これは本当に脳がスライドする感覚なのだ。勝手に。それで虚言をいうことのないように、職場ではあまり話すことはしないし、応答するときはとてもゆっくり回答している。これが事実と相違ないか、確認している。私が誠実でありたいと願うとき、それは普通の人の誠実にありたいと思うような率直で簡単なものではなく、こういう努力の上に成り立っている誠実を守りたいという道徳以前の人格や自己同一性に関係する話なのだ。

 

それなのに不純なことをやらされると、自分が元の木阿弥に引き戻されていくような気がする。抗っているからこそ、元の巣に似たことをやらされると強い嫌悪感があるのだ。

 

「生活できる」ということについて、学生時代は大層に考えすぎていたが、生涯貧しく過ごしてもよいと割り切れたら、邪悪なものに触れなくて済むのだろうか、と考えれば、そうではないことは確かだ。貧しさや豊かさの問題ではなく、自分でできることを増やして、資本の力や上司の存在にかかわらず、自分でじかに求める人と関わり、自分の意志で誠実にかかわりながら仕事をすることが大切だと思う。

 

私は本当に正しい処理がやりたいのだ。そうでなければ、これまで人のためにすることが自分のためだと思ってきた自分の働きや努力に、何の価値があるのだ。

 

先ほど下々の作業員にとっては、「一事が万事」という考え方があると書いたが、私も人生については、「一事が万事」という感覚があるのだろうか。なぜなら、自分の人生を大局で見たときに考え至る方針に対して、ここで「一事」を行うということがあってはならないからであろう。「一事」を行わないということが、私の自己同一性のためにとても大切なのだ。「一事」を行わないことこそが私なのだ。

 

一つでも有害な原材料を使って、直ちに人体に害がない食品を製造してしまったら、それは消費者のために行う食品製造ではないのと同じで、一つでも人を貶め無力化させてしまうことをやったのなら、それはもう人生そのものが懺悔の一環になる。そういう一つをいくつも積み重ねて、懺悔とともにもう二度とやらないのだと考えて今があるのに、さらに何か一事をなすとすれば、私は無力化してしまうのではないか。これが繰り返されれば、いつかは必ず懺悔することも断念するだろう。

 

「一事が万事」という考え方について、経営者や管理者は、「万のうち一つのことを騒ぎ立てる」「くだらないことでたてつく」「少数者のために歩みを止めることはできない」などと話すけれど、それでも私たちは社会的成功を収めていないからか何か知らないが、「一事」を行うか行わないかということを重視しなければいられないの。