いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

自分のお仕事と死ぬ瞬間

仕事では何でもない一般の人に対して食事を提供する会社の経理をやっている。この仕事に意義を感じていて、すごく意義を感じていて、私の人生の甲斐性はなんでもない普通の人に対して仕事を提供する仕事をもっと上手く行かせて会社をもっと潤滑に動くようにして、もっといい食事をみんなに提供することなんだ、と思っている。しかし仕事ではいつもチームをうまくいかせることが要求されるのに対して、死ぬ瞬間は1人きりだし仕事を定年退職したり辞めたりすれば一緒にいてくれるのは旦那だけということを同時に毎日考えている。もし明日死ぬと言われたとして、それでも私の人生は何でもない普通の人に食事を滞りなく提供することだと思えるだろうかと考えるとそんなことはない。私は経過を見守ることのできるものにしか興味が持てないからだ。大聖堂の建設を指示して死ぬようなことには何もやりがいを感じない。一分たりともそんな事業には命を費やしたくない。

 

意義のある仕事だと思うのと同じくらいかそれより多い回数毎日、意義のために生きて一体何になるんだと思っている。何か選択をする必要があるときに意義がある方を選ぶのはわかる。選択それは自分の人生を意義に向かって曲げるようであるべきなのか。私は海が見えるような場所で旦那とゆったり病むことなく暮らしていければそれがよいというか心地よいと思う。病むことがないというのは自分で決められないが。ただ生きたいと思う。自分を養うだけでつつがなくその日暮らしでも良い。

 

もし病気になって最新の医療を受ければ治るとなって金が足りなかったらどうしようみたいな保険をかけるような貯金のために働けば人生が損なわれるだろう。意義のために生きさせようとするのは扇動で言葉の遊戯じゃないか。そうやって全てが停滞したから言葉の力でまた感動を呼び覚まそうとする。突出した指導者をテレビに出したり、拗らせたメールを送ったり。

 

そんな言葉に心動かされるのもうんざりだ。生身の会社や他人から心動かされるのが嫌だ。絶対最後まで見届けられるものが自分というプロジェクトなのにそれより優先されるものはないのだ。なぜかといえば私は経過を見届けられない、最後までこの手を触れていられないものには興味を持てないからだ。自分以外のものに自分を捧げてはいけないと思う。会社が壊れているけれどそれに対して無賃労働でなんとかすることはしない。毎週サーバーエラーとかで仕事ができなくなる。会社は壊れてきている。サーバーにあるものが丸一日さわれなくなる。本来の仕事を取り戻すためには自分のプライベートを犠牲にしないといけないが、それはしない。

 

意義があってもその仕事を従業員が自分を養う方法としてよく思ってくれるようにできなかった会社は淘汰されてなくなるが良い。他にもビジョンを実現できる会社はある。