いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

宇多川元一さんの『他者と働く』を読みました

この本読みました。

私の中では社会人5年目(5年目だと!!!)ということもあって、すでに結構組織については諦めがあって、会社ではとことん残業をしないように、必要最低限しか人と話をしないようにと心がけているところがある。もちろんチームの人とは雑談をしたりするけど、違う部署の人とかはある程度距離を置いて、あんまり変な仕事がたまらないように放り込まれないようにしている。

この本を読んでも、なんとなく他者と対話したり、分かり合えなさを乗り越えていこうというような内容についてよりも、自分に対する厳しさみたいな部分だけ読み取ってしまい、自分の中にはバイアスがあるなと思う。

 

このようにして、ある種の情報や知恵を見ても、「私の所属している部分では無理だから」「自分の生活と両立できない」「そこまでの思い入れが現職に対しては存在してない」などの理由で、シャットアウトしてしまう悪い潔さが年齢とともに養われていくのだろうか。それは良くないことだと思うけれど、他方ではその悪い潔さが自分の体力等にフィットした生活の仕方をなんとか形作っているのだという気がする。もし大企業で偉くなっていくような人と同じように私が暮らしたら、体力は尽きる。私は大企業で重要なポストにつく人と比べると明らかに「生物的な強さが劣っている」と日々思っており、だから目指せないし、目指さないことでしか生き残れないと思っている。そして今私が目指していることは健康で長生きすることと、高給でなくても良いので人権が侵害されない程度に安全な仕事を死ぬまで続けていくことである。

 

私は自分の所属している会社の仕事(飲食業)を社会的に意義のあることだと思っているし、一定数の人の心と体を支える役に立っていると思っている。お客さんに対してベストを尽くしているとは思わないし、満足を十分に与えているとは思っていない。でも私たちの仕事は社会的インフラといってもよく、ある程度のクオリティの食事を家計を逼迫しない価格で提供するというサービスは必要であると思っている。

 

このような低みの見物的な若者が大量に発生していることを考えると、またもっとクオリティーの高いものを目指すためには転職したり独立したりしてしまうことが推奨されていることを考えると、永遠に低い会社は低いまま、沈没するまでは緩やかに生き延びていくという運命にあるのかなと思う。

 

そしてコロナ禍で業績が落ちていく中、そういったやる気あふれる人たちは転職していき、少しやる気がある人はこの澱みの中に残されてはいかんというわけで追って転職していくのかなと思う。つまりは会社は脱ぎ捨て脱ぎ捨てして、自分の理想に近づいていくものと思える。

 

この本は私の解釈では、そういった脱ぎ捨て脱ぎ捨てする方式を脱して、自分の組織の人との隔たりやモチベーションの在りどころの違いをどうにか乗り越えるための対話の方法を書いた本かなと考えました。めんどくさがりな現代の人たちに、人と渡り合おうと呼びかけているような感じ。私は組織に対して嫌な感情を抱いているので、そんなバラバラなモチベーションを抱いている大量の人の腹落ちポイントを探りながら仕事をする必要があるのか?と思ってしまう。会社での仕事に一生懸命になって、また嫌な気持ちになりたくない。あまり踏み込んで、法に反することをやらされかける目にはもうなりたくない。という気持ちが強い。

 

「食はどんなに貧しい時にも人に残された最後の尊厳」だと思っていたかつての私は、どんなにお金がなくても、(1日200円くらいで3食分)自分が健康的だと思えるものを食べ続けられるような社会の実現を思っていたけれど、ただ安い食事を大量に提供するだけでは、慈善活動か、それともすごく大ロットで食事を作れるくらい集客することが必要だということを感じた。家賃手当で暮らしていたときは食費が一番自分の負担になっていたので、食に対して情熱があった。そんなに安く食事を提供することになったら、他の飲食店が潰れて職がなくなってしまうじゃないかという人もいると思うけど、私は、安い食事がそれで商売になって成り立つのなら、その上で他の飲食店と競い合い、残らないものは淘汰されて然るべきだと思っている。

 

コロナが流行り始めた時も、自分の会社が潰れても淘汰されたということなら良いし、その上にまた新しい会社がどんどんできれば良いと思っていた。中小企業はあまり納税額が大きくないので、大企業にお金が集まるようにと世の中はできていると思う。例えば上場できるような立派な企業の株にはお金が投資されてどんどん資金調達しやすくなるようになっている。株主優待とか配当を配ってさらにそのような会社は賑わう。そんな会社が然るべき時に淘汰されるような世界になってほしい。世界シェアNo.1でも、本当に良いものが現れれば客の多さで淘汰されてほしい。そういう仕事を作るために会計の勉強をしようと思ったし、今も続けられるのかなと思う。というか別に会計とか全く興味なかったけど、必要に駆られて(経理に配属になったので)勉強を続けられたのは、自分なりにそのように考えることができたからだと思う。

 

最近は株を買い始めて、本当に投資したい会社は上場していなくて投資できないということを毎日感じている。忙しい人の実際の消費活動に関しても、この社会には入れ替わりがなさすぎる。いつも決まり切ったものを買わされていると感じている。マジョリティの会社がいつまで立っても変わらない。

 

それと今は食費より家賃の方が重大な問題であるので、当面の目標としては、「固定費」に着目している。固定費を極限まで大ロットで必要なだけの性質のものをサブスクすることで、固定費の不安のない人生をみんなが送れるようになるにはどうしたらいいかということを考えている。

 

何を言いたいかというと、今のところ、現在のバラバラの目的意識を持っている人が大量にいる会社で分かり合えなさを時間をかけて対話をして解消していくよりも、さっさと仕事を終わらせ、業務は効率化して定時に帰宅することが何より大事であるという認識でいるということです。上場企業に入って上場企業の作法を学びたいとは思うけれど、上場企業で安定した暮らしをしたいとかは思っていないし、むしろそれを淘汰する存在を思いつきたい。

 

私はこの本でよくないとされている、戦って敗者と勝者を作り出さなければ気が済まないタイプの人間だと思った。それには事情があるけれど、誰もがその中で渡り合うだけで生きていけるような組織にはいないんだと思っていることが一番の原因かもしれない。さらには組織の中で戦って敗者と商社を作り出すことに価値を見出せるような組織にいる人だってそんなに多くないのだと思う。大抵の場合、権力争いをする一部の上部層を除いて、会社員が望んでいることは「望める限りの不動」であると思う。仕事以外のことで忙しいのだから。でも不動であることなどありえない。だから私の会社も社員ごと淘汰されてしまえば良い。そして定期的に同じモチベーションの人だけが集まって、淘汰を繰り返していけばいいと思う。私は安定した(毎月きちんと給料が支払われる)仕事からの給与を自分の生活と勉強に利用しているけれど、こういうふざけた自分もそのうちに首になれば良いと思うし、というより会社ごとなにかに淘汰されてほしい。と、考えることもある。

 

社会全体がそのようにぐちゃぐちゃと淘汰されまくる渦になって、固定化した格差が一掃されると良い。そしてみんな人生の驚異についてもっと真面目に自分ごととして毎日考えたら良いと思う。