いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

なぜこれほどの「かもしれない」に苦しめられるのか

この仕事をやめたら仕事がないかもしれない、家族が死ぬかもしれない、ワクチンを打ったら体調を崩すかもしれない、今やっていることを成し遂げられないかもしれない、明日死ぬかもしれない、というような。

 

最近わかったのだが、自分の一番取り組みたいことに全力を尽くしていないとこういう不安にばかり振り回されるのだと思う。

 

仕事をやめて司法試験に取り組むのか?医学部受験に取り組むのか?

どんな職業も政治によって翻弄されるとわかった今、私は何に取り組むのか。

全員が幸せにならないうちは、自分は幸せになれないという気持ちと、その全員というのは、いま不幸な人たちのことじゃないか、世の中はシーソーみたいに、どちらかが幸せならどちらかは不幸なのだという気持ちがある。

 

全く関係のない会社の帳簿をいじくり回し、しびれた神経を振り回し、電車に乗って死にたくはない。こんな生活に疲れ切っている。自分自身のズルさにも疲れ切っている。本当にうんざりだ。どんな言葉にも傷つけられないくらい無敵だったのに、働いているせいで、自分の中から湧き出す言葉に思い切り切りつけられている。

 

辞表を書いて、仕事をやめて、本を買い集めたとき、旦那が頑張ってねとか言ったり、試験に落ちたとき旦那が残念だねとかまだやれるとか言ったとして、結局それは頑張れることとは別だし、残念だと思ったりまだやれると思うこととは違う。自分の人生の目的は、自分で考えるもので、人には全く関係がない。

自分の人生の目的は自分の魂に経験に、悔しさに答えるものだから、古い苦しみを救いに行くことだから、人の言うこととは何も関係がない。私がいることには理由があって、もしくは理由を私が作るから、私にだけ関係するものなのだ。

 

孤独ではなくても一人で決めることはあるという話でした。