いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

旦那の実家の家屋の素晴らしさ

私の両親(すでに死去と50代後半)は頑張っても持ち家というものを持つことはなかった。厳密にはアパートの一室を一時持っていたけど、持ちきれなくて売った。

旦那の実家は田舎だけど持ち家の一軒家があって、車がないと暮らしていけないし、このあたりでサラリーマンとして働いて家族を養うことのできるレベルの仕事はないが、持ち家というのは本当に素晴らしいじゃないかと思っている。

 

自分の世代で家を建てようという気持ちがまったくない。この世にガラクタが増えてしまう。かと言って部屋を買うかと言われると将来のことはわからないのに、管理費は取られる。子供も育てきれる気がしない。子供に資産を残す必要もない。そうなると、こういう実家の家にお金を払っても住まわせてもらい、仕事はリモートワークするというのが良さそう。ただ自分にまだスキルが足りないのでリモートワークでできる仕事が限られている。何か一般の人のためになる仕事について一つ一つ力をつけて履歴書を充実させよう。資格もたくさん取っていこう。

 

私の親は40歳位のとき、これで人生折り返し地点だとか言っていた気もするのだが、実際にはそれはもう人生の終盤でそのあと15年ないくらいで死んでしまった。何より大切なのは人生の伴侶と、健康だとおもう。一生懸命働くのはよいが、体や精神に無理を重ねないようにする。ストレスを与える人や職場からは離れる。いいことだと思えることをやる。

 

死ぬことについてあえて書かないようにしていたのだが、死ぬことについて考えないことはできないし、死ぬ方からいきるほうの日々を考えるとやはり生きていることの素晴らしさが見える。死ぬことを考えないで生きることを考えることはできないし、死ぬことについて何も考えないことで生きることの辛さが身にしみてきてしまう。死ぬことがあるから生きている体から音が出たり、死んだ人に対して自分が生きている人として存在することがよく感じられる。

 

グアテマラエチオピアのコーヒー豆がおいしい。