いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

不均衡

女は男に働いてほしいと思っているものと言う偏見、こだわり、救済への不均衡な期待を前提に話を勧めてくる人が多い印象。逆に男に働いてほしいと思っていない女なら体を張って激務に身を投じたいと思っているはずだ、他とは違う価値を出して然るべきだというバイアスもある。本来関係がない。

女とか男とかいうものを単なる記号と捉えることはできないのだろうか。大陸の風を感じたくなり、私は中国国営テレビのドキュメンタリーチャンネルをインターネットで検索した。晴れ渡っている。私は夜になると晴れているとか曇っているとかのことは感じられなくなる。くもりガラスでそんな細かいところまでわからないから。

 

文化人類学に魅力を感じるのは、こことは違うどこかに生きる人たちの文化に自分の自由を見つけるからだろうか。でも文化人類学を話すだけでは、寝不足の人たちの差別はなくすことができないのだ。特異でない人間として生きる自由を、また特異であったとしてもそれを表明しない自由を私達は有しているはず。

 

その自由を私達は、お互いに姿も見せず、声もかわさず、本当に触れ合わないことによって手にする日が来るだろうか。人と接触すれば新たな偏見が強化されていくのなら、人類同士全く触れ合わないまま、リモートで文字のみによって触れ合う、本当に自由な未来が来たのなら、私達は独り立ちして考えることができるようになるだろうか。生活の文脈として書物を読み偏見を強化することなく、自分の考えの深化のために本を読むようになるだろうか。