いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

被害的意識を持つ。被害的言葉を話す。

よくうつ病ぽくなると、被害的(自分が〜されている。〜するなんてひどい。みたいなこと?周りは敵だ!みたいなこと?)な妄想を持つという話を聞く。

 

でも人間も生きものであるから、ある程度の危険や矛盾に面したら、被害を受けていると判断しなければいけない。そうしないと死んでしまうから。

 

更に人間は身体的危険だけでなく、名誉的危険、社会評判的な危険にも面している。

 

他人から見れば、過剰反応であると思われることがあっても、本人にとっては他人からは知り得ない世界に属しており(例えば会社の人からは知られていないが宗教の信者であるとか、愛読書の文言を人生の拠り所にしており、それに反することは仲間を失うことだとか、自分が崩壊してしまうというような場合)みんなそれぞれの理由で被害を感じる。

 

それをうつ病と一蹴することで世界は成り立っているのだが、そういった人たちを排除するのは本当に見にくい馬鹿なことだと思う。もちろん部下から「被害を受けている」と言われたら、自分が加害していないということを証明しなければならないだろう。しかしその際には人を排除するのではなく、お互いに短い生を謳歌できるように理解を深め、活かし合っていかなければならない。

 

まあそんなことは現実には行われていないので、結局のところ、例えば会社なら会社以外の世界のない人間ばかりがうまくやっていける。そして愛読書など持つ人間は虐げられる。主義主張など持つ人間は虐げられるのか。そうすると何かの世界を持っていても、それを隠すようになる。今の私がそれだ。医療崩壊は起こすべきでないし、外出して遊び呆けるべきではない。しかし周囲に排除されないように通勤もする。マネージャーの意向に従って密集した部屋に行く。

 

なんで戦争したんだとか、なんで特攻隊は存在したのかとか、こういうことだと思って、多分また戦争は負けるとわかっててもやるだろう。遠い昔の関係ないことじゃないんだ。人間心理のことなんだ。

 

東京で医療崩壊が起きたら、

と思って旦那を地元に帰らせたとしても田舎はそもそもの病床数が少ない。貯金もしたのに、いざ危険となるとなかなか仕事を踏ん切りつけてやめられないものだ。このことを忘れずに、後々の糧としたい。しかし糧とするのも生きていればこそだ。