いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

悩んでいること

時間がないこと。体力が足りないこと。このことを私は学生の頃から悩んでいる。眠れない。支離滅裂でも思っていることを書きたい。

私の不自由。これらのことについて世間が悪いのではなく私が特殊なために、不自由になっている。このことも相まって、また思考を牛耳る煩雑なことが多く、毎日イライラしている。

コロナが流行ってワクチンが普及してきて、打てるのではないかと思う。多分来週あたり予約が始まる。

私はワクチンなんか打ちたくはない。実際のところは打ちたくない上に、打たないで、人と一切接触しないで暮らせるのなら、そちらのほうが良い。

多少ひもじくても良い。

多少退屈でも良い。けども一生それを続けることは許されていないんだろう。そういうことを望まないのが正常な人間という圧力をかけられている。正常な人間なんかじゃなくてもいい。正常なんかじゃないんだから。ここで正常になろうとしても、どうせ人生のどこかでは漏れてそれてしまうんだから。そんなふうに思って、でもまだ正常の域で仕事もできる、とか思って名残惜しくて、そのままでも年を取ってしまうよりはなにかしなくちゃいけないと思う。自分が生きられる何かを本当にちゃんと見つけなきゃ。

でもお金がなくなったらどうする。旦那がもし病気になったら?私がなったらどうする。でもそんなことばかり考えて過ぎていくのはおかしい。

 

一体どこならいいのか。私は知っているのだが、自分が書き溜めたものの上にまた書き溜める世界でしか私は自由ではいられない。例えばこのブログだ。ここは一方通行でもいいし、読者と交流してもいい。コメントをもらうこともできるし、もらわないこともできるし、反応することも可能だし、反応しないことも可能。そういうところにブログを書く意味があると思う。自分にとっての正常を書いて、後で読み返すこともできる。

 

今思ってることは、私はワクチンを打ちたく思っていない。それは熱が出るとか問題がある。あと何故打つのかといえば、それは仕事のためだ。でも仕事のために自分の体に何かをするのは嫌だ。

仕事のために体を壊すのは嫌だとか、仕事の労災で指を失うのは嫌だとか、後で体を壊したときそれが仕事のためだと知るのが嫌だとか、他人が仕事のせいで体がどうなったとか聞くのが嫌だというのの延長線上にある感情だ。私は働き始めてからいつもそういうことを思っている。

 

働くことがいつも身体や名誉の危険と隣り合わせだということは、アルバイトしながら学生をしているときから思っていた。なぜ生活のために働く人が、生活をぶち壊す危険に面して働かなければならないのか?

 

下のPodcastをたまに聞いているのだが、今回の話題はワクチンだった。私とは全く反対の世界線の人もいるのだと思う。不安な人は周囲の不安な声を拾っていく。逆の人は同じようなツイッターのタイムラインを見ていたとしても反対の声を主に拾うだろう。

 

https://open.spotify.com/episode/1uSuVliZW4njuvCSjqTl02?si=nd-mk4kuTaqXaVFr9Cm8Tw&utm_source=copy-link&dl_branch=1

 

東京は大都市でありながらこれすべてがきちんとされていない。すべてがダブルスタンダードだ。ダブルスタンダードが普通に存在する。私はそれぞれの人にそれぞれが立脚するスタンダードをはっきりさせてほしい。

 

はあとため息をついちゃう。人生で何度も踏み絵を踏まされるなら、いっそ蹴散らして怒ってしまいたい。生きることによって生き様を満喫しようとしているのに、なぜ自分の思考を踏み絵を踏むことで分類されなきゃいけないのか。ありのまま思考を展開させてくれ。ありのままで生きさせてほしいと。

 

自分で決断した人生をいきたいよ。

 

自分の27年の人生を振り返ると意外と常に何かに怯えているという共通点がある。旦那は私のことを体が強くて怯えなくて良いからよいというが、そうではない。

 

自分の決断したことしかしなくて良い人生なら、怯えないでちゃんとできるのか?それはよくわからない。とりあえず睡眠失敗している。