いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

壮大な責任

子供を育てることになんの意味があるのか最近そんな話ばかりしている。一体どんな人間になり得るのか、それが全くわからない他人の子供(誰から生まれたのか最低限の情報が得られたり得られなかったりする養子)でもよいのか。

子供を育てることは面白いだろうけど他にもっと面白いことはいろいろあって、子供がいると逆にそれができなくなる。何か大きな土木な政治を成し得ない自分たちにとってそれは自分より長く生きるものを育てる唯一の趣味であるという点で特異で、それだけに大きな献身を、集中を強いる趣味でもある。

 

自分の血が流れる、自分の配偶者の血が流れる人間しか愛せない献身できないという考えは自分には受け入れられない。だからと言って他人の子供を壮大なくじ引きのようなそれを育てて、良く思って楽しめるのか。ある意味でハズレな事態になってもそれをハズレと捉えず言葉にして感謝できるのか。神の存在が必要なように思えてくる。

 

事態を超越した神の存在によって行為が肯定されると思わなければやって行けない事態になっても受け入れるのか。悲劇を生む子供という存在(親を打ちのめすこともあり、殺すこともあり得る)を受け入れてそれを滋味とできるのか。私は現実以外のところで神が肯定してくれると思うような考え方は受け入れられない。

 

たとえば最初からある意味ではハズレという事態が見える子供を受け入れるのか。たとえば自分の夫を殺そうとする子供を受け入れるのか。それは敵なのに、そういう可能性が考えられるのに他人を受け入れられるのか。

 

自分の子供でも他人の子供でもそれは同じことである。私がいなければ親はもっと健康に生きられた。それは私には間違いないことだと思っている。死ぬ必要もまだなかった。子供は親をボロボロにする。特に私のような神経が弱い人間には。家の壁が崩れかかってくる。ハズレ以前に自分が子供にとってハズレであることは疑い得ない。子供のためにボロボロになってしまう親なんてハズレなのだ。頼んでもいないのにボロボロになるなど子供以外にとっても悲惨なのだ。

 

世界に対して献身することがかなわなかったから子供を代わりにして勝手にボロボロになるまで献身しようとしているなら、自分は大馬鹿者大迷惑だ...。

 

自分以外の人がみんな強く生きていると誰か言っていた。自分は弱い部類だということを自覚したら、ダンゴムシのようにずっとしゃりしゃり生きるしかない。自分は本当にどうして夫と出会うことができ夫を信じ得たのだろう。子供1人他人1人でもこれほどに恐れているのに。

 

今日は黄色い月が出ている。