いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

歩いていく

朝早く起きて仕事前に肉のハナマサに買い出しに行く。俺たちはいつも2人で行くのだ。2人でいると良い。どこか違うところに行ってしまうこともないし、2人だから二倍覚えていられる。ハナマサ伊予柑が美味しいので重いけど買う。肉も買う。牛肉が買っても良いという値段と鮮度で売っているのは東京ではここだけ。

旦那の実家でお義父さんがボケてきたという話を聞く。中学出てからずっと働いていたから、ついに働かなくなってボケるのは当たり前のようにも思う。でも働かなくてよくて今が一番幸せだと言っているらしいので良かった。働くのが好きなのだと思っていたけど違うらしい。FIREの本なんか読まないし毎日仕事をやって頑張ってるし、朝から晩まで働いて文句も言わず、テレビを見たら酒やタバコだけで生きている人も、働かなくていいのが幸せと思うんのであるなあ。

働かなくて良いというのは自分で判断するしかなくて、たとえ金がなくても働かなくて良いと考えることはできる。そうしないといつまでも働くことになる。豊かさには上限がないのだ。

お義父さんは働く場所がなくなったのだが、働かなかなくてよくなったと言っているのでよかったと思う。たとえ金がなくなっても、借金しないその年になったら限り家を取られることはない。

南の地で生まれ、労働に放浪したのちに山に囲まれた甲信越で平和な日々を送っているのだなあと思う。

 

ボケたら困ると言ってる人はボケる本人の心配をしてるのではなくて自分の心配をしてるのである。ボケた人に何もしないでボケさせておくわと思う。そして別に長生きさせる気もなくそのままにしているだろうと思う。そしてだんだん死が連れていくのだなあ。けど、引き留めようとして囲い込めばそれは長生きしてしまうだろうと思う。旦那がボケたらわたしはずっと一緒に歩いていき、歩きながらだんだん死に連れていかれるところを見るのだろうか?