いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

連休4日目

家のインターネットを解約したので、スマートフォンBluetoothで折りたたみキーボードに接続してブログを書いている。なんというか、まだ連休4日目なんですか。一週間くらい休んだ気がする。仕事をしている時、毎日2時間くらい残業しているので、あまり時間がなくて、できることが限られている。また地方の工場で勤務していると長距離を通勤するということがないので、本を読む時間もあまりない。東京では通勤電車で本を読んでいた。本を読み上げてくれるサービスに加入しようかな?と思っているが、どんなサービスがあるんだろうと今まで調べてこなかった。今日調べてみようと思っている。今まで使っていた便利なと思っていた手帳が今年から廃盤になっったので、もう仕方なく業務に関係のある分野の手帳を購入したのだが、業務に関係のある部分をあまり見ないけれど普通に便利で、今までのものより便利ではないかと思っている。今まで使っていたものは24時間バーチカルの手帳だったのだが、24時間のタイムログをつけることに重きを置いていて、でもそれってあまり必要じゃなかったのかもしれないと思っている。要は自分が何をできて何をできなかったかを知ることができればいいので、それを24時間で書くのは単にログしている満足感を得るためだったんだなと思った。たぶん。

この県に来てから三國志の小説とモンテ・クリスト伯を読むことができたのはとても嬉しい。自分には長い小説を読む力は失われてしまって、老後に目があまり見えなくなってから小説を読むことになるんだろうと思って悲しんでいたが、どうやら精神衰弱と経済的な不安から読めなくなっていただけなんだと思う。それにしても長い小説を読むときに最適な姿勢ってどんなもんだろう。足が痺れたり、背中が丸まったり腰が痛くなったりする。

ロッキングチェアがいいなあと思うが、家に置けるわけもなく。昔に小学校の同級生の歯医者をしている家に行ったことがあり、そのときにそこに住んでいるおばあちゃんがロッキングチェアに座っていた。金持ちっぽいなと思っていた。昔に印象深かったことは大体なんか金持ちだなとかそういう印象なんだろうか。特に人についての印象はそんな感じなのだろうか。そんなこともないような気もしている。友人の家族とかいうものにすごく興味があったように思う。できるだけいろんな友達の家を見たいと思っていたような、、、でもそうでもないような。はっきり言って対して覚えていない。思い出せば思い出すほど思い出すほどの暇もないので間違った記憶で上書きされてしまうような気がしている。思い出さないことでかえって嘘にならない記憶というものもありそう。

 

今日はこの件に来てからよく行った喫茶店へ旦那と最後にいって、いつも食べていたものを一緒に食べた。商店街にあるその店は今日から営業していて、子供が多かった。子供を連れてそれぞれにご飯を食べさせて服を着せて座らせるのにいったい1日いくらかかるのだろうと思ってしまうくらい複数人の子供を連れている。

例えばナポリタンにしても八百円はする。それを子供三人分と親三人の分を買うとすると、それだけで五千円近くなる。出かけてご飯を食べるだけで五千円。とても無理だなと思う。

私は喫茶店によく来ることができるようになったのは初めてのことだ。東京では極度の疲労を常に体験するにもかかわらずクラスだけでお金がなくなるので、喫茶店に入ることはたまにしかできない。ほんとうは三時間毎に喫茶店に入りたいところだ。とはいえ喫茶店に入ったところでうるさく狭くものは高いし決して気持ちの休まるものではない。

私は地方を礼賛しているわけではないが、あるていているだけで消耗するのが東京であれば、歩いているだけで空が広く道が広く人が少なく物が美味しく家が広く、素材だけで満足できる物が多いのがこの東海地方であるという感じがしている。

ただこれが仕事で転勤したのではなく、この地に移住となると気楽には行かないわけで町内会に入らないとダメだし消防にも誘われるし車は買わないといけない。いつも乗せてもらうわけには行かないのだから。車は接待の道具でもあり、車に乗せてもらうことは接待を受けることなんだ。そのことが地方転勤をしてよくわかった。そして三十代という年齢の私はすでに本当は若い人にはそういった親切をしなければいけないのに、自分の生活が可愛いために車を買おうとしない。まあそれはよくわかったのだ。だからこの世に住みやすい場所なんて存在しない。ただ転勤すると割と過ごしやすい場所があるってことなのだ。それも期限付きの場合ってかんじだ。しかしはっきり言って家の広さは健康にとって非常に重要である。そういう意味では東京では住んでいるだけで健康が損なわれる。東京で大きな家に住むことはできない。東京時代には20平米の家に2人で住んでいたのだ。あの生活は本当に健康が損なわれる。街を自分の部屋の一部として使うなら良いのだが、コロナが流行して外を歩くことも警戒しないといけないとなってしまったので、本当に大変な気持ちだった。あのような生活に戻ってはならないとともに、家賃手当がなくなる前にお金を貯め、住む場所を見つけ、なんとか健康な場所に住まなければならない。そう言った目標がある。

 

そのために今年は簿記1級と危険物取扱者の資格を少しずつとっていき、測量士補についても取得し、仕事は私でしかわからないような内容を増やしていき、会計士試験の勉強を開始する必要がある。自分は貧しくなりたくないんである。富裕になりたいのである。金は人を救えるためであり、自分を助けるものであり、時には命さえ買えるのである。金を稼がないでも生きてはいけるがしかし、金をしか受け取らない人のいる世界で唐突に自らを救わねばならなくなる場合がある。そうした時には、お金が大切なのだ。そのため今ちょうど健康で働くことができるのに、そして好機が巡ってきたのに、お金を稼がないことは自らを助けないということになる。

 

疲れた場合には休まなければならないと思う。そのために喫茶店に入る金を稼がなければいけないし、ノイズキャンセリングヘッドフォンを買わなければならないし、十分に健康な食事を取らないといけないし、眠らなければならない。そして静かで広い場所に住む。牢獄ではない場所にだ。肉親に溢れていない静かな場所に。自分が選んだ家族だけがいる場所に。