いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

お金と経験と考えのこと

久しぶりに同窓生と会ったら、二人は私より給料の良い仕事をやめて好きな仕事をしていた。遅れながら私の年収が100万円くらい違った(彼らはもう其の仕事してないが)ことに衝撃を受けた。

二人は色んな場所に行っていろんなものを買い、金も貪欲に欲していて、私たちの夫婦が共働きしないで旦那が主夫しているということには納得できないようだった。働きたいはずだ!というのだ。

 

ふむとおもって、彼らの買っているものとか持っているものを見ると、スマホからして二人はiPhoneでわたしはAndroid格安スマホだ。服も全然質素なものだ。そのことには言われるまで気づかなかった。

 

たしかに私は全然物事をお金を払って経験していないように思う。なるほどーと思ってお金を使ってみたのだが、仕事があると思うと同じ店にしかいかない。そして測量士補の勉強したいから家に早く帰りたい。香水を安くお試しできるサイトをブログ友達に教えてもらったのだが選んで届くのを待ってそれを試すのがまどろっこしい(めんどくさい)のでやめてしまった。

 

どうも人生の優先順位が今はそれじゃないみたいだ。世界が狭くなってるかもしれないが、今はどうしょうもなく世界を狭くしてもやりたいことがあるのかもしれない。ただ偏屈になってるだけだろうか。そうかもしれない。

 

この本を読んでいたら、(女性が行うことの多い)家事労働が無賃金の無償のもの、価値の低い評価されないものとみなされているのは、資本主義のためなのだと書いてあった。資本主義の発展?のために、労働者は労働力の再生(きれいな家で寝てご飯を食べて…)のためには格安でそのための家事をしてくれる人が必要だったから…とか。

農業はみんなで働かないとできないから、そういう差別はない、という話だったような。けれども農業やっても力の強さで優劣が付き、直接生産につながる労働で活躍するものとそれ以外が分けられてしまうように思う。

農業の頃の気持ちに戻ればよいというわけではなく、テクノロジー?の導入によって、お互いが全く腕力などの差に関わらず同じだけの金を稼げる(もしくは平等に金なんか稼がなくなる)ようにならないと平等にはならないんじゃないかと思う。

けれどそうなるとまたテクノロジーの費用がかかる人とかからないナチュラルに原始的に強い体躯や回転の早い頭を持っている者の違いが出てくるかと思う。

基本的に私が思うのは他者と比較している時点で差別は起こるということで、自分なりの道を極め、仕上げていくものだけが差別から開放される…のではないか?

 

自分のやるべきことを仕上げていく中で人と比較するのはいいと思うけれどもあくまで比較はサブ的な要素で、本題になってしまうと違うのではないか。

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