いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

なんでこんなに

ハローワークへ行って申請をしたら専門実践教育訓練制度の認定が降りて、これならきっと建築学校に行けるだろうという段階まで来た。あとは願書を出して仕事と両立できるところまでは両立して、だめになったら転職して2年間続ければよい。そして試験を受けて二級建築士になる。

 

今の仕事は食べていける。けどずっと続けていたらきっと不正なことをやらされてしまう。学んで不正を避けられるようになるスピードに対して、色々な仕事を投げられておかしいと思う処理をさせられそうになって、だんだんそれが避けられない物量になっていくスピードのほうが早い。追いつけないのだ。

 

今私は若いから(28)不正の要求に対して強く断って、「他にも仕事はある」という態度をとれる。旦那に仕事をしていないでもらい、わたしの扶養にはいってもらっているが、そのことは上司も知っている。健康保険証が上司から配られるからだ。扶養に入っている人がいれば健康保険証が2枚渡される(これ自体プライバシーなのに何なのだという気はしている)。結婚しているが経済的には独身より頼りないという点を勘案しても、別に明日首になっても利用できる公的制度については把握しているし、資格だって取った。それで私は「他にも仕事はある」という態度を取れる。

 

しかし10年後このままなら無理だ。折られてしまう。世の中はひどい戦場だと言う認識をしている。

一人で働けるようにならなければいけないと思う。

同僚が家業を継ぐために退職した。家業のある人は組織に執着がなくてよい。組織に執着というところから害悪が始まる。組織に執着するのは自分に不安だからだと思う。

 

経済的には貧しくても良いと思う。その日暮らして行ければよいし家族を飢えさせなければよいとおもう。しかし働くとなれば、区別をせず、なんでも進んで体を動かして働くようでなければ行けないと思う。そして一つの仕事がどうにも正しく行えないのであれば、やめて違う仕事をしなければいけないと思う。JOC経理部長が自殺したのを覚えているだろうか…私はあのニュースに戦慄した。本当にそんなことがあったかは別にして、多くの人が不正なことを強いられたのではと想像してニュースをシェアしてコメントなどしていた。想像しうることは起きうることだから、起きていないとしても起きたのと同じくらいひどいことだ。そのときには逃げられなければ、自分も自殺するしかないのかもしれない。

 

まえにセネカを読んでいたら、お金を蓄えるようなこと(倉庫業)を批判しておきながら、セネカ自身があまりある富を保有しているではないかと批判されても、別に返すときが来れば自分は預かって管理してるだけだから、返すのであって、私欲のために保有してるわけではないみたいなことを書いていたと思う。

 

使うべきところには使い、お金を渡すべき人には渡す、みたいなことを書いていた。でもセネカの厳しい基準で考えて、お金を渡すべき人なんてどれだけいるだろうか。結局限られた自制できる立派な人間だけで富を分かち合ってるに過ぎないではないか。そうなれない人は貧しいからという理由でそうなれない場合もある。そのような人たちに少しでも援助して自制できるようにして、行きやすくしてあげることが金を持つものの使命ではないのだろうか。

 

うまくそれらの人に投資できないことは自分や将来への不安もあるだろうし、会計や制度に関する知識がないのかもしれないし、人を信じる限度がわからないのかもしれないし、密かに人のことを馬鹿にしているのかもしれない。

 

そういう人間にはなりたくないし、私は家を作りたいのだ。家を作り、誰も家賃のために働かなくて良いようにしたい。できることならみんなが自分の家を自分で確保できるようにしたい。自分で自分の生活を賄えるようにし、余剰の豊かさのためにのみ働けるようにしたい。

 

最低限の衣食住のために型にはまっていないのではないかと毎日心配し、無為な傷つけ合いをして働いていくことはない世界。

 

いま自分は大きな会社で働いているが、人を傷つけ働きにくくするために大きくなったとしか思えない。この30分の1の規模ならみんな無理せず働けたのにと思う。

 

今の安定はそういった人たちの苦しさ(明らかに人格的に立派である現場の人達の犠牲)の上に成り立っているということにうんざりする。自分はこんなにだめな人間だと思う。休日返上で働き続ければ現場の人に負担をかけないで済むけれど、それは私のやっていいことではないと思う。そういうことをすると他の人にもその負荷が求められ、次に私のポストにつく人が苦しむ。私は役職なしの一般の社員で、労働者としての範囲で責任を果たすことが即ち会社として現場の人も幸せになるようにまとまっていくようにならなければならないと思う。

 

自分だって休日返上で働きたくはないので、これは逃げの考えじゃないかとも思うけれど、それをやってしまうこともまた逃げじゃないかと思う。一つに対する近道が本当は違う遠回りを作っているような話。

 

自分は多分経理の仕事を二十代のうちに辞めるけれど、それは会計のことを学ぶのを辞めるということではない。会計について学ぶようになったことは私に自信をつけたし、将来の仕事にも活かすつもりだ。自分のだめなところも会計のことや簿記のことを学ぶ段階でできた。本当にありがたい。

 

私は自分の家を自分で作りたいだけなのかもしれない。なんでこんなに良くない思いをして家賃を稼がなければならないのか。そのことを憤っている。