車を買いたいと思っていて、明らかに今の年収からすると無謀なのだが、自分の趣味のものとか何も買わないでも車を買って持ってみたいと思っていて、それでもまだお金足りないので今年は諦めるか、昨年までの貯金を使うかという話になる。明らかにおかしいくらい車に執着している。
まるで車を買わないと夢が消えてしまうような勢いである。家が会社の借上であるところからして、仕事がなくなったら家がなくなると思ってストレスに感じているのかもしれない。
自分一人なら寝袋とテントと本とかあと書くものがあれば守れると思いながら、旦那と二人となると、安心して過ごせるスペースが必要で、家のかわりに車でひとまずそれを満たそうとしているのかも。でも車は燃料を入れないと走れないのだし、走れなければ撤去されてしまう。家のように住める場所ではないのだ。また移動して帰って住めるような場所もない。なのだけど車に執着している。
ひとや外界と接して疲れない、変な空気やタバコの煙に触れてつらくなることもない箱を動かしたり動かしてもらったりして、旦那と二人できれいな景色を見て、生きているねというのをやりたいのかもしれない。たしかにそれは車しかできない。カメラをほしいと思っていたけどそれより車がほしい。限りある命に色々なものを見せて、それを2つの命に同じように写したい。
限りあるという否定できない事実を見ないようにしたほうがいいというのは言わないでほしい。有りえないことだ。限りあることから目を背けて限りある命を生きることは生きないことだ。
いつかどちらかが忘れ果ててしまうこともありうるし、死んでしまうこともありうる。明日かもしれないし今日かもしれない。車を買うことで早く死ぬことになるかもしれない。逆に長生きすることになるかもしれない。
見ながらも私は、恐れているばかりじゃなく、能あるものになりたい。出会うものを照らして見ることのできるような人になりたい。この死に気づいていながら、この死に、また他の理不尽に対することができるのは照らして見ることのできる者だけ。照らすためには磨かれた知性、知識、認識の曇なさが求められる。