いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

悪に関する会話と人の相談に乗ることについて

会社で同僚と上司のよくないところについて愚痴を言ったりしているのだが、そういった愚痴を言い合える仲でも、その中には仲間から悩みを相談された時に、悩みを聞こう、何に悩んでいるのか想像しようという気持ちを持っている人とそうでない人がいる。

私は人に悩みを相談されると、その方法が強引でなければ、悩みを相談されて嬉しいし一緒に考えたいという気持ちを持っていて、態度もそのようにしているのだが、そうでない人が圧倒的に多いという印象を持っている。

「それを相談されても私には何もできないから」というような反応がかなり多かったりする。

私としては人の悩みを聞くことで自分の悩みが紐解かれたりすることが多いので、とりあえず悩みは聞くことにしたい。愚痴を言うだけでなく悩みを聞いて自分の考えを言うことのできる態度であると言うことは、すなわち自分で悪を批判するだけでなく、なりたい姿に関する考えを持っていると言うことだと思う。そうでなければちょっとダメだろうと思う。

 

関係ない話がここから始まるのですが、

youtubeで動画を毎日のように投稿している人がいて、この人は鹿狩りをしており、その肉を食べていると言うことで、たまにその動画を見ていたのだが、この人がホームビデオのような家族の映像を普通にyoutubeに公開していて、新鮮な気持ちで見ている。

私も子供の頃のビデオカセットテープを3本ほど持っているのだが、今でもそれが見ることができるのかわからない。何が写っているのか全く覚えていないので、今度見てみたいと思う。

www.youtube.com

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動画を見ているうちに自分の親も生きていればこの動画の配信者くらいの年齢だっただろうと言うことがだんだんわかってきて、何か中毒性のあるもののようにずっと動画を見たりしている。

人は失われた夢や完全体の装備を懐かしむ時、その苦しさそのものを愛しているところがあると思う。でも別にそれは本気の苦しみじゃないのだ。ただ楽しむための苦しみというものが存在する。

本当の苦しみが楽しむための苦しみに変わる前に、悩みを持つようだ。そしてその悩みがどのように受け止められたかによって、その苦しみを楽しみのために思い出すときに、ついでに思い出される世界の印象が変わるのではないかと思う。

 

人の家のホームビデオをブログに貼ること自体、かなり変な行為の気がしているので、もしよくなければコメントいただければ消します。

 

最近愛読書がセネカの「生の短さについて」だという話をしたのだが、実際には多忙すぎて新たな重めの本を読むことができていないために結果としてこれが愛読書になっており、なんども読んでいるという気もしている。本当はもっとちゃんと読書もしたい。むしろ今から激しく働くより、歳をとって目が悪くなってから働けばいいとも思うが、そこから働くのはなかなか大変だろうなあ。体はとにかく健康に保たねばと思う。