いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

セネカ

この本を読んでいる。

毎日残業をしていて残業時間が50時間に達したためやる気がなく、電車の中でふと簿記の問題集を開けないことがあった。

そういう時愛読書であるセネカの生の短さについてを読んで、読み慣れているから喫茶店にいるような長閑な気持ちになっている。

 

その岩波文庫の解説のところにこの本が引用されてるので、興味を持って借りてみた。

最近読書メーターに登録する体力がなくて登録していないが本は毎週借りている。

 

残業50時間が辛いというより従業員が軽んじられて、誰かを幸せにしようという気持ちがなく働いている環境が辛い。同僚から出世するよう言われるけど、知識をつけてからでないと同僚が安心できる環境にできない。ちなみに同僚に出世するよう促されることと出世を実際にすることは全く無関係である。

経理は常に不正と隣り合わせだから上からの命令を聞いているだけではいられない。知識をつけ人に悪いことをさせないようにしなければならないと思う。自分お身も守らなければ。

 

なんのために働いているのか考える時、

やはり好きで働いているんだと思う。同僚と同じ苦しみを苦しんだり、一つのことを進めるためにいろんな人の違った進め方を見ていろんなことを感じたりすることが、生業を同じくするという方法でしか楽しめないことだから楽しい。食べていくためと人は言うけれど食べていくためだけなら働かなくても生活保護でいい。こうまでして働いているのはやはりいろんな感じ方や考え方に生きた感覚を与えてくれる仕事や仲間というものが、その存在感が面白いから働いているんだと思う。

 

生活保護になったら外面が損なわれるとか言うけれど、損なわれるならそれでいいじゃないかと思う。別に他人がどう思おうが、どうせみんな死ぬのだから。お金なんかバリバリに稼げなくていい。今すんでいるところは好きだけど、もし家賃を払えなくなったらまた引っ越して旦那と仲良くやっていけばいい。

 

私にとって旦那を失うことは許せないことだから、本当はこのコロナ禍で出勤することはやめるべきだろう。でも出勤しなくても感染して死ぬかもしれない。でも出勤するのをやめた方が感染リスクは下がるだろう。

 

そろそろ出勤するメリットに対して確率のことを考えても弊害の方が強烈になってきていると思う。インド種が流行し出したら、もう会社に行かない。それでクビになるのであれば、クビになっても申し訳ないが仕方がないと思う。上司にそろそろそんな話をしなければならない時が来てしまった。上司に命の問題で退職を考えていることを伝えた方が誠実だろうなどと考える日が来るなんて。

 

死は対岸の火事のようではあるが、誰かに起きることは他人にも起こりうる。

起こりうることを避けないのは良くないのではないか。死は開放でもあるというけれど、今死ぬべきでないのに避けないのは愚かすぎるのではないか。