いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

変化

大人になっていくと同時に、どんな些細な嫌な感覚にも耐えられなくなっているように思う。子供の時はそもそもどこへ行くこともできないのでせいぜい平地にいるより高い場所に上って一人になるくらいのものだ。

大人になると自分で仕事も辞められるし、親とも離れられるし、嫌な話は聞かないでその場を離れることもできる。

こんな風でいいのかなと思う。自分は23歳くらいの時にそういう人生が始まって、大体今に至るまでまるで年を取っていくのを感じないし、そばに旦那がいる今に至っては、まるで人生が静止したように、湖面の幸せを味わっている。

 

このプランはだんだん危ないということがわかっていて、つまり何らかの計画を持たねばならない。常に自分は、誰かに耳元で「次はどうするのか」と聞かれている気がする。どうすればいい。このまま働いていくことは不可能。それは確かだ。

 

父と同じ年で死ぬことを想像してみると、自分はもう人生の半分を生きたのだ。たったあと半分で死んでいくこともあり得るし、明日死ぬこともあり得るのだ。

 

このことを考えるのは、もしかしたら旦那のほうが私より年上だから、ある日突然死んでしまったらどうしようといつも考えているのかもしれない。シャワーから出てきたとき、自分の足を見てげんきな脚だなあと思っている。タオルでよく拭く。自分が体の中で一番よく拭いているのは脚かもしれない。

 

 進もう進もうと思うとき、きついと思う。

富士日記(下)-新版 (中公文庫)

富士日記(下)-新版 (中公文庫)

 

 東京にいると疲れるという話をFacebookに書いたら、今度東京に行くからご飯でも食べようよ!田舎の仕事の話聞きたかったら!みたいなメッセージが来たんだが、そういうことではないと思った。もっと人間どう生きるかの問題なのだ。私と会ったことをコンテンツとして自分の人生のためにするつもりなのかなと思った。ちがう。私は、あと、「がんばれ」とかももういらない。頑張っているじゃないか人生みんな。

 

私はもっとみんなが自分の人生について語り漏らすことなく語ってくれることを願っている。