今までずっと汁椀がなかったので、米を食べ終わって味噌汁を食べるということが通常だったのだが、前々から汁椀が欲しいねという話をしていて、ふるさと納税でもらった。
使い勝手については後日書きます。これでついに米と味噌汁を同時に食べられる。
夫婦椀を頼んで、赤と黒の椀が来ると、失われたジェンダーを色で表す文化(常日頃は色でジェンダーを意識すると言っても青と赤である場合が多い)を感じて、ちょっとめんくらうというか、ひねくれているので黒い方を使おうかなとか思ってみるもののまあいいかなと思って赤い方を使う。
旦那が昔から爪水虫だったのだが、3ヶ月くらい前からこの薬をつけていたら爪の皮が剥がれて綺麗な爪になってきたので、すごいなと思っている。
お正月にいただいたお菓子を食べてみたところとてもおいしかったので、メモ。
id:kitakumaさんのブログに取り上げていただいて、自分の昔の文章を久しぶりに読みました。近頃全然ブログにしっかり考えをかけていない(そもそも自分のPCを開く時間を取れていなかった)ので、昔はこんなに文章を自由自在に書いていたなと思った。「あなたっていつも荘」というブログ名素敵ですね。そして自分の昔の文章を読んで「あら私っていつも荘」と思いました。そうだからこのように生きているんだよなあというようなことをあまり思いすぎるのも面白くないというか、結局本当はそうじゃないという可能性もあるから、あんまり固定的に考えるのは良くないと思うけれど、でもある程度は「あら私っていつも荘」って部分はあるよなーと思う。
しばらくの間自分のやりたいこととかをしっかり考える時間を持たないで行動していたけれど、最近お金をもっと稼ぎたいと思って行動しようとするけれど、心の中では何故かそうじゃないと思っている自分がいた。その根本にあるのはこれをやりたいという自分の考えが多分どこかしらあるからで、力が込められないのはそのせいだろう。そしてなんとなく考えなくても昔強く思ったことによって習慣づけられた行動を辿っているというか、思想をリピートし続けることがなくなっても、その頃の行動の残滓によって動いているというような状況がある。
例えば家のことに非常に興味を持っている状況も、建築学校に行きたいと思い続けている状況とかも、家(家という概念も含む)についてかなり関心を持ち続けているからだと思う。
仕事は変わっても同じ信念とか目的のために、ことをやり続けるということはありうるし、可能なのだというようなことを鹿くんがポッドキャストで話していた。リンクは1/10のラジオを参照しているのですが、そのことについて話しているのは違う回だったので、もし興味がある場合には探してみてください。鹿くんの話を聞いて、気付かされたような気持ちになっていたけれど、どうも自分の昔の記事を読んでいると過去には自分でそのことに気づいていたようだ。と思う。人に話を聞いて気付かされるようなことが可能な内容は、実は自分が昔に一度軽く気づいていたから気づくことが可能なのではないかともたまに思う。それだとすればできるだけ毎日いろんなことを考えて、いろんなことに気づかない勿体無いとも思う。自分が植物だとすれば、自分に水をやり続けるためには考え詰める必要があると思える。
お金を稼ぐために、自分の人生の目的に無関心になる必要はなくて、むしろ自分の人生の目的、自分が考え続けるその理由について関心を持ち続けるからこそ、自分には人格があり続けるし、ちょっとした気候の移り変わりなどのためにイライラして人格を損ねたり、人を不幸にしたりしないで済む。自分の過去とか収斂について感情を打ち込んでこそたとえ貧しくなっている時でも、やっても金銭的にも甲斐がないと思う時にも継続して作業し続けることができる。人生は流れていくけれど、その中で何かやることがあるとすれば、簡単にいうとそれは全部作業なのだと思う。自分がどのような作業をするかということ。どのように選択し、何に対して誠実にいるのかということは毎日の作業によって習慣づけられるし、逆にいうと自分の作業の中にそうできるほどには他の物事に自分の思考を反映することはできない。なんのために自分は現状にベストを尽くすのか、そういうのはやはり毎日毎秒、必要だと思う。金のために行動しても金が得られるとは限らないし、自分は金を得られない人生かもしれないと多くの人が思っているのではないでしょうか。それならなんのために行動するのか、なんのためにベストを尽くすのか。金を得られたとしてもその金を使って思う通りのことができるのか。金を十分に貯めるまでの間に自分の本当が損なわれはしないか。そうなら金ではなくこの自分の手で足で、言葉で、毎日自分を人生の至る小さなところに結実させていく方がいい。
「笛吹川」という小説を読んで、後書きもよんで、著者紹介も読んだ。今日、正月以来ずっと取り組んでいた仕事をやっと終わって、あとは漏れているところに一つずつ対応するだけだという段になって、やっとブックオフで買ったこの本を読むことができた。この小説では、一人だけ切実な執念と目的を持った人物が出てくるように私は思う。この人物は強烈な恨みを持っているのだが、恨みというのは他人からは理解できないものだ。それでもこの人物の人生だけがこの小説の中では結実しているように思う。筆者はあえてそのように書いたのではないか?そしてこれだけ多くの人が突然に捨てられるように死んでいく小説を書いた人が、前には保険会社に勤めていたということがなんとなく面白い。
人は恨みを忘れてはいけないと思う。恨み以外の方法で人生を動かしている人は確かにいるはずだが、恨みの果てにしか結実しない何かがあることは私はなんとなく主張したいように思う。人生のテーマなんて軽々しく行ってみたところで、そうした前向きなことは現世に目的を反映するための道具でしかなく、また恨みを晴らす方法はそのテーマだけにこだわっている場合でもない。恨みを晴らす方法を人は本気で考える時、百も二百も考えつくものだと思う。そしてそのどれが実現されてもまだまだ恨みは晴れないように思うものではないか。
そのどれか一つを短い人生を使ってやっとはたして周囲からの評判も得たようなところで、人生に満足するようなひとを私は軽蔑する。というよりそういう精神の働きを私は軽蔑する。自分がそうなりたくないということだけれど。「笛吹川」に出てくるこの人物のことも、私は軽蔑する。結実したような顔をしているが、結実していないではないかと。偽りの結実だ。
恨みに対して前向きと後ろ向きと激しい怒りと世界への嬉しさ優しさを無限回数繰り返して、逡巡し、命を使って、結局偽りの結実にしか辿り着けないのだが、それでもそうではない結実の瞬間を色だけ何度も空想して、そんなことの全貌を人に話せるわけもないから、理想家と思われることもなく死ぬ。
自分が子供だったのに、今度は自分が子供を作るか作らないかについて悩んでいる。立場が変わっている。旦那と結婚して、二人で暮らしている。旦那の体調についていつも気にしている。けどそれをなぜ気にしているのかといえば、もっと大きな問題について、例えば必ずいつか訪れる相手や死の時に、自分がどのようにするかとかを考えているからとも言える。
子供を作るか作らないか(できるかできないかはとりあえず置いておいて)、という悩みもも、自分がどのように振る舞うか、その経験をすることを求めるのか、自分は自分がされたように以外にどのように子供に接するということを選ぶのか、というような無数の悩みの種について、どのように選ぶのかというその限りなく続く選択の増えることを自分が真面目に気力を失わず向き合い続けれるのかというような全般的な悩みを伴っている。
あまりにも多くの悩みが人の人生の重さを一緒に包み込んでやってきたら、その時かなり多くて、投げ出してしまい、それ以降の考えをできないくらいに衰弱したり、嫌になって死んだように過ごすようなことがあってはいけないと思う。どのようにして自分はそれに対してちゃんといられるほど強くなれるのか。自分はもうそれほどに強いのか?そういう全般的な悩みにも関係してくる。