いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

出社している多くの人が思っているだろうこと

このコロナは確かに恐ろしい。だけどここで怖がって出社しないと上司に行ったら、このコロナとかいう一過性のものが終わった後、出世できなくなるのではないか。

 

職を失ったら、自分は不況の中で仕事が得られないのではないか。どちらにしろ、もっと考える時間が必要だ。だが仕事をしていて考える時間がない。

 

家族は不安に包まれている。うまく振舞えない。

 

 

 

 

 

 

 

自分の家の近くで感染が出た。その近辺には近寄らないようにしようと思うなど、今まで思わなかったことを思っている自分がいる。

また旦那から、どうしてもっと前に危ないと思わないのか、なぜ今になって思うのかと、責められているのだが、それについては責められる理由がわからない。私は危ないということを理解していたし、危ないと思っていなかったわけでもない。だけど私にその時点でできたことがあるだろうか。例えば一月前、私にできたことがあるだろうか。確かに私はその当時マスクをしないで外に出ることもあった。それは近所では感染が出ていなかったからだ。

私が不安に思ったからと言って、その当時からマスクをいつも使っていたら出勤時に使うマスクはなくなっていただろうこともわかる。また不安に思っていたからと言って、社内でみんなが不安を共有する前に、出勤をやめるとかそういうことができたかといえば、できなかっただろうし。私に何かできることがあっただろうか。

私はそもそも論で責められることが嫌いであり、いつも考えて決断していることを誇りに思っているタイプの人間なので、その時はいろいろ考えた結果そのように決断したのだ、ということができ、またそう伝えることしかできない。

 

私は「危機感がないタイプの人間」ではなく、時々にいろいろ考えた結果、旦那から見れば「危機感がないタイプの人間」がするようなタイプの決断をたまたま下してきただけであって、この世に存在すると仮定されている「危機感がないタイプの人間」と言われる類の、慣性によって常に危機を見逃す決断をしてしまう種類の人間ではない。そもそもそれはもう完成した人間がこの世に存在するという強固な考え方に基づく言い方であって、私は、完成した人間が存在しており、その人は同じような決断を常に下すというような考えの持ち主ではないので、そういういい方にはなじめない。人間は死ぬまでも死んでからも完成することはなく、いつもバイアスができるだけかからないようにと自分で心掛けながら考え決断していると思う。バイアスをかけ続けることをしている人間でさえ、私が考えることによれば「バイアスをかけ続ける」ように見える決断をすることについて自分でその都度選択して、決断しているのだと思う。その選択がおかしいと批判することはあっても、それだからその人間は「危機感がないタイプ」の人間であるとか、そういういい方はしない。この人の決断は私から見れば「危機感がないタイプ」の決断に見えて、私は賛成できないというにとどめるのが私の性格。

 

そしてその性格、というのは、そういう人格ということではなくて、いまそういう性格と表明するようなことを私が選択しただけであって、常にそういう性格ということではない。

 

けど私の旦那は私のことを「危機感がないタイプの人間」ということを発言する選択をして決断をしたので、私はそのように決断する材料があったことを理解し、もう一度考えることにしている。

 

私は考えることができる限り、よくいう~のタイプの人間にはならないし、考え続けることで人格というものと癒着しないで済む。