いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

罵る心理

平成生まれの私としては、これは多分時代特有の感覚だと思うのだが、誰かをダメ人間だと思うということは、全くない。時代特有の認識として、「発達の偏った人だな」とか、「これが得意分野ではないんだ」と考える。人には人の向き不向きがあり、楽に生きていけばいい。だから上司が、この部署の人間はみんなダメ人間だ、とか、やってる仕事全部糞だと罵っていることになにかプラスの効果があるのか本当に疑問だ。このような方法は一般に意味がないどころか逆効果であるというふうに認識されていると思うし、実際にみんなモチベーションが下がって、付き合いきれないという気持ちになっている。何なら私も、別に言われてもおかしな内容のことならあえてやってあげなくてもいいや、どうせ罵られるし、と思っている。

 

想像だけど、多分このような人は税金払いたくないと思っているのではないか。というのも、多分人を下げて自分をよりよく思い込みたいタイプだ。どうせいつか死ぬのに。人に優劣なんかつけても仕方がない。

 

私達は平成生まれなので生活保護のひとのためにお金を払いたくないという気持ちとかもまったくない。正直、最近より一層そのように考えるようになったのだが、税金は私ができうるサブスクの中で一番コスパの高いやつだと思っている。

 

税金や年金を払うことで治安が良くなり図書館も充実している。

 

先月健康保険料とか労働組合費とか年金とか住民税とか所得税とか共済会費とか合わせて6万5千円くらい支払ったのだが、全然オッケーである。

 

たまに今月お金まったく余ってないなとなることもあるが、まあそういうときは炊き出しでも行けばよいし、また余っているときには炊き出しに差し入れするのもよかろう。

 

所得税とか住民税は税金ということになるんだが、その何倍もの金額の新しい本を図書館で借りて読んでいるし、毎月払い戻されているようなものだ。

 

明らかに私は税金を払っているより使っている方が多い。

そしてこれからもそうだろう。

 

まあここで重要なことは上司みたいな人間は、「きっと人を肯定的に見ることができない発達の偏りがあるのだろう」と考えるようにして、「そういう人なのだ」と感情を動かさずに対応することで、それによって気分が害されそうになる場合には避けることも大事だろう。

 

とはいえそのようにすると上司みたいな人は永遠に孤立することになり、仕事は進まずモチベーションも下がるので、とりあえずここは普通の会社だから、人に怒鳴ったり、糞とかダメ人間かバカという言葉を使ってはいけないというルールについて理解してもらわなければいけない。それはマスクをしてもらわなきゃいけないことと変わらないと思うんだけど、ではそれをできないような発達の偏りのある人間であるなら、どうしたらいいのかなと思うけど、その場合はやはり上司になるべきではないんだろうという考えになる。けども、それなら発達の偏りのある人は偉くなれないのかという話になって、それは良くないと思う。けれどもダメ人間とかクソとかを言っている以上、周りの人は耐えられないのであって、かえってそっちの普通の感じの人が精神死んでしまう。

 

でもよく言われていることなのだが、「発達の偏りとかを差別してはいけない、と思っている人が発達に偏りのある人に出会うと差別する。なぜなら発達に偏りのあるような人が人を排斥したり、能力に偏りのある人を差別する悪人で有りがちだから」というような言葉があって、前にちょっとびっくりしたのだ。そのことを考えると、私もそういうふうになっていないかと心配する。

 

かと言って、この人がどうしてバカとかクソとかダメ人間という言葉を使うのかという心理の内容まで知ろうとすれば、そのことについて聞くほかなく、60近い年齢の人に私がそのようなことを話しかけること自体が失礼になるかもしれないし、この人はここに仕事を受けに来ており話をしに来てるわけではないので、そんなこと望んでないんじゃないかと思う。

 

例えば年をとるとそういう汚い言葉を使ってしまうのだという突き放し方もあるけれど、自分だっていつかは年をとるのだし、そんな突き放し方は良くないと思う。案外そういう何も感じないようにするすべを色々と身に着けて巧みに上司を避けている私が一番ひどい人間なのかもしれない。

 

 

どうしたらいいと思いますか?

「発達の偏りがあるのだ」という私達の脳内に一種の決り文句のように流れているフレーズは、優しいと同時に人を排斥する。

 

 

私の旦那はこれまで色々あってきて、今は働いていないのだが、そのことを私は発達に偏りがあるからだとは思ったことがない。

そのようになった流れについて細やかに聞くことを嬉しく思うし、働かないでくれているのも嬉しい。働くならそれで嬉しいし、心配するけれど、元気にしていてくれたらいい。

 

上司に対する気持ちと、旦那に対する気持ちは何が違うのかわからない。多分怒鳴りつけてきたりする印象があまりに強く、深く考えたくない、知りたくない気持ちが大きくなってきたのだろう。要するに私はもう上司について考えたくないのだろう。それも物理的に大きな声で怒鳴られ、仕事もぐちゃぐちゃにしてくるから。だけど、そんな理由でこの一人の人間をここまで避けていいものだろうか?未熟じゃないか、私はと思う。

 

たしかに私は家に変えればそんなにイライラしたり上司のことで不機嫌になったりするわけに行かず、自分もそんなことしたくないから深く考えないのは仕方ないと思う。でもこれが正しいんだろうかとはいつも思う。

 

結局これだったら私も上司をダメ人間って言ってることと変わらないのじゃないか?

 

 

 

 

この本を読んでいて 意外にも自分が50代以上の人たちに反感を持っているというようなことがわかった。この本は50代前後の人だけが死ぬ疫病が大流行するという話なのだが、疫病の流行っている今読むと、どうして若者が死ななければならないのか、という苦しみに駆られる。

 

50代以上の人のために行ったオリンピック、50代以上の人が手配しそこなったワクチンのせいでなぜ私達が不安定な労働環境に置かれ、命を危険にさらされなければならないのか。

 

私達はその場所その仕事に手を入れることさえできないまま、医療も受けられない状況に置かれているのだし。

 

でもこのこともまた何らかの方法によって解決できるのだ。