いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

二人で暮らすことと制限

火垂るの墓を久しぶりに思い返して、二人で暮らすということはかなり危険が伴うということを今一度思った。私からしたら人が2人以上で暮らすと必ず何かの病理が把握しきれないほどに広がって、私自身の立ち位置を覆いつくして身動きがとりにくくなってしまう。

二人で暮らしているとちょっとした「こうすべきだけれど面倒だからやめよう」みたいな気持ちでも、「面倒だからやめよう」という気持ちが二人分になって、「こうすべきだけれど面倒だからやめようと思うけれど、けどやはりやるべきだからやろう」という風にできなくなることが多い。その結果貧困に陥っているような人もいると思う。

 

それだけではない。一人で生きているのであれば、何らかの窮地の場合に、土下座をして助けを乞うもまた一興と思うかもしれないが、人に愛されている私としては死ぬ目に会うまで土下座なんぞする気にならぬというような問題もある。

 

私はなぜか人との関係をうまく構築できない。それはたぶん私が他人に対して抱いている不信のためなのだが、それはやりようによってはただのこだわりと思って、捨てることもできると思う。それはある日決断することによってではなくて、私なりのオリジナリティーある、ルーツある考え方の納得によって。

とにかく私の人生は平和な世界にあるのにまともに不信に向き合うとここは常に戦場で、火垂るの墓でも読んでたほうが心が安らぐくらいだ。アメリカひじきとか。

 

ひとつわかっていることは、私はだらしなくなってはいけないということ。仕事から帰ってくるのが遅いから勉強しないとか、今日は勉強しなくていいとかいう甘えは絶対にダメ。そういうことをしたら、結局自分が貧しくなるためだけに東京に来たことになる。旦那とだめになるために東京に来たことになる。私は東京へ身を立てに来たのだ。そしてちゃんと稼げる人間になって旦那の実家に行って、家族を手に入れるぞ。

 

今日は旦那はセブンイレブンで買ったクラムチャウダーのパスタを、わたしは公園の売店で買ったペヤングソース焼きそばを持って公園のベンチで食べて楽しかった。

 

人生に対する主体性はいつも持っていたい。そのためにできるだけ人が少ない場所まで上り詰めたい。

 

火垂るの墓

私はこの映画を見て子供時代、弟を守ってやらなければと思ったものだ。あれは一種の病気で、私の前には戦場があった。まるで模型のように私はこの世界を俯瞰していた。できるだけ正しい選択、できるだけ正しい毎日を積み重ねることで世界は開ける。そう信じてきた。

 

節子の年齢を4歳にしたのは設定としてあざといと思っていて、もし節子が7歳とかなら、節子お前にもなんかできることあっただろとなるのに、そういうことするからただのお涙ちょうだい作品。