いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

新しい手帳

会社を辞める前に外国から来た非常勤の社員さんがわたしに手帳とペンをくれた。ペンは書きすぎてもうインクがなくなってそのままにしているのだが、手帳は今日から使える。もう12月だ。近所の掲示板に近くの神社のお焚き上げの日が掲示されていた。

年越しのあの楽しい夜の感じが思い出される。わたしは焚き火を囲むのが好きだ。街に歳末大売り出しののぼりが出た。寒いのに真っ赤な色がいい。

 

なにも買うものはないがわたしは元気に暮らしている。祖父はわたしが東京に帰ってきてから親と住まないことが不満なので、平日の朝から電話をしてくる。折り返しかけると言って無視している。物事が理想的にまとまっていないことが嫌で仕方ないのだろう。わたしには理想なんかない。殺されなんずとして生きているだけ。

 

きっとこのようにして祖父は孤独のうちに死ぬことになるだろう。今あるリソースで生きていかなければならない若者に対して、こうでなければならぬと理想を語ったところで、なにもうまくいかない。立ち止まって理想を追い止める時間はない。孤独なのはかわいそうだと思うが、家制度は崩壊しており、わたしの家庭もまた崩壊しており、わたしは家族の問題について疲れ切った挙句無視を決め込んでいる。祖父がよく口にする言葉は「世間体」だが、わたしは子供の頃から世間体なんて損なわれまくっていたのだ。いまさらそんな理由でなにが損なわれようとどうでもいい。殺されなんずとして生きているだけだ。

 

そのうち楽しいとおもっていきるようになるのかなぁ。寝る時間がない。