いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

初めて短歌の本を買った

初めて短歌の本を買った。こういう本を実店舗で買えたら嬉しいのだけど、Amazonで買ったら案の定表紙が傷ついていた。でもいいのだ。

買ったはいいけど短歌つまらん、となったら嫌だなと思い、じっくり読めないでいる。ひとりになって読みたいものだ。例えば雪山へ登山して読むのが良い。

結晶質

結晶質

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自分の家の家賃が誰に払ってもらっていても構わない何も感じないと思うくらい何かを描いたり育てたりしたい。与えられたものを享受して最大限に生かして媚びへつらわずに話ができるくらいの青空の下の人間になりたいのだ。恐怖を感じないで何かを受け取れるような人間に。だけどそれは無理だ。何かを与えられるなら何かを失い、誰かが与えられれば誰かは奪われる。そういう人生観を持っている。ひとまずいつでも奪われぬように神経を巡らせなければならない。そうなるといつでも自分の持ち物が増えれば増えるほど神経が疲れる。

何もない道を歩いてるだけの自分でありたかった。剥き身であることの怒りを路面に打ち付けてただ自分の苦しい生き方を正当化していた本当の苦しみの毎日は気分が良かった。ありうる限り本当に酷い目にあって、酷いとそのことを評していた。それが最も素直で良い。分不相応な家に住み、自分で生み出す以上の金を払わないと住めない場所に住んで、それで旦那が健康を取り戻した。私が手に入れる以上の富で賄われた家に住むことで。私は悲しい。私は悔しい。自分たちに必要なものを自分だけで用意できないことが悔しい。

悔しいと言いながらも毎日働かないとこの生活を維持できず、それにしては能力の足りない自分が悲しい。私は自分の無能が悔しい。

私には正当化できない無能の部分がある。金でも解消されず、働くことでも解消されない、生まれつき備わった無能の部分がある。克服しないとならない。