いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

隣人とブログをなかなか書けないでいることについて

隣人が犬を飼い始めた。犬を飼っていい賃貸なのかは知らないが、たぶんいいのだろう。すごく大きい黒い犬だ。

全然しつけられていなくて飼い主を引きずって階段から落としたりしている。野生だ。不思議と大きな犬が吠えている声というのは気にならない。

 

最近ブログをちゃんと書けていないことの理由には、やはりデバイスがないことがあげられる。スマートフォンには会社の人から連絡など来るので、休みの日にはあまり見なくなった。今は昔使っていたマックブックエアーを起動して書いている。このデバイスは仕事とは無縁だ。画面が少し色あせている。ブログをもっと書きたいと思うのだが、ちょっと困ったものだな。さらには家では勉強をすることが多くなった。

 

勉強というのはなかなか面白くて、何の勉強をしているのかというと宅建の勉強をしている。知れば知るほど自分の中にある穴が埋まっていく感じで、もっとうまく考えられるようになりそう。それにしてもいつも仕事とは関係のないことを勉強してしまう。仕事と関係がないがために一生懸命になってしまう。器用貧乏な人というのはこうして生まれるのではないか。いつか仕事なのに一生懸命になれるものが現れるのではないかと思って職業を転々としてしまいそうなところがある。一つのことに特化することの本質的な不安と、やとわれて評価されなければならないということの不快がすごくある。いつでもあるのだ。もともと評価されなければならない環境ではうまく振舞えない。何かをするべきなのに、するべきなのであればしないことにしようとかそういう考え方をしてしまう。

 

ボーナスが支給された。手取りで17万円少し。給料一か月分もないがもらえるだけましであるし、前職のようにお小遣いの金額ではないのでよかった。しかしこういうケチり方を見るとやはり自分は本当の大企業には務めていないんだなと思う。やはり上場大企業のようにはいかない。上場大企業並みではないなというのはいろんな面で感じている。月次決算一つとっても、上場企業から来た人を驚かせるような方法がとられているらしく、話を聞いていると非常に面白い。

 

良くも悪くも私がやっていることはそうした上場企業にはない人力の仕事らしい。暇な仕事だ。精神が死ぬほど暇。そして別にそれ自体嫌ではないけれど、一緒に働く人の精神がさもしい。人格的に尊敬するような人が一人もいない。私が人格的に尊敬するような人は自分の旦那だけだ。いつか出会えると思って職場を転々としてしまいそうだ。

 

いつも自分が仕事や職場を転々としてしまうのではないかと思って怖い。それは避けなければいけないと思う。職業を転々としないように決定的な国家資格などを取ればいいと思うのだが、たぶんその気になれば資格があっても転々としてしまうだろう。職人的な求道精神とは全くかけ離れた人なんだ私は。

 

もどかしい。ブログでもっとこういうことを考えているということを書きたい。

ちょっと画面が白っぽくなってしまっているこのPCを活用して、明日からももっと書いていこう。文章を書いていると時間が簡単に過ぎる。それがちょっと困っている。朝書くわけにいかない気がする。ご飯を食べないで出勤することになるだろうから。

 

職場ではリモートワークが導入されているのだが、リモートワークをして会社に来ないとだらしないみたいにみなす風潮があり、また部下が自分の周りにいないと安心しない人は嫌がっている。私は同室の上司が罵り合っているのを見るのは嫌なのでリモートワークにしたいのだが遠慮している。いやだなあ。

 

高いスパチュラを買った。作りがしっかりしている。クレジットカードのポイントを交換して、それで旦那とプールに行けるように水着などを買った。どろどろしたものをきちんとこそげ落とさないで洗うとシンクがドロっとするので、これで全部こそげ落としてから洗おうと思ったのだ。食材も無駄なく食べられるし。
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生きていく自分と死んでいく自分が当然だが同時に存在している。

寛容な自分とすぐにくじける自分が存在している。

いつも仕事が嫌になるのは人間関係からだ。