いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

収束という考え方と継続の途上という考え方

ある女の考え始めたこと

私は毎朝起きて職場に通うということをやり続けています。それは仕事から得られる収入が私がやり続けている大切なことに良い影響を与えているからです。また通勤時間も今の私にとっては良い影響を与えています。それは本を読んで私の人生についての試行錯誤をもっと行うのに役に立っている。私の人生は試行錯誤の連続で、試行錯誤を続けるということが私にとって生きるということなのです。人生は繰り返している試行錯誤が同時に走りまくっていて、その同時に駆け巡りお互いを比較し合っている状況それが人生であり生活です。それも何かの完成のためじゃない。全てが対象のためです。継続している。

 

人がなぜそもそも子供を作るのかということを最近考えると、それは子供を作らない場合人は自分の人生がじきに終わるということがわかりきっているので、何かを完成させることに注力してしまう。でも実際にその何か、例えば事業を成功させて年商いくらを達成するなどのことに、本当に興味があるのかといえば、どうせ死ぬのだから興味はない。少なくとも私にとってはそうです。子供を作れば、自分は継続していくドライブの途上でしかない。私自身の死も、生命の連続の途上にある一つに過ぎない。ここで私はもう完成品として成り立たなくても良い。興味がない、自分自身を完成させるというようなことにもう興味を持とうとしなくていいのです。

 

だから部長、私にやる気がないなどと言われてもピンときません。私はボーナスをたくさんもらうとか、昇格するようなことには興味がないです。興味を持とうとしていた時期が確かに長かったですが、私は子供を作りたいと今では思っているんですよ。というのも私は自分を完成させるような気持ちになることはできるだけ避けて、ただ継続こそをしていきたいんです。そのために私自身も植物のように繁殖することがいいと思うんです。続けていき、そして死んでいくけれど、それは続けていく中の死であるので。それはそうすることで終わりや節目ではなくなるんです。

 

ただただこの気持ちを植物のように上に伸びたいという本能を達成したいんです。地に向かって根を伸ばしたいでもいい、目の前にある柱に蔦をできるだけ絡みつかせたいでもいい、そういうことを繰り返して、ただただ繰り返すことで、毎日違う風でありながら、同じ自分でいられる。例えば毎日家を作り続ける。その家を誰かが気に入ってくれることもあるかもしれませんが、それは私に関係がないんです。確かに毎日やっていることがお金を生んでくれることは継続する助けになるからいいと思う。でもそれは問題じゃないんです。自己満足でもいいんですよ別に満足することもないけれど。継続していきたいというだけなんです。

 

例えば私が毎月月次決算の仕事に参加していますが、この仕事自体は私はお金を稼いで私が毎日継続している大切なことにスムーズに資金投入できるからいいと思うのです。だけどこの決算を早く終わらせると褒められるとか、そういうことを求められても困る部分があるのです。というのも私はただ継続しているんです。確かにこの仕事がうまくいかないせいで休暇が減るなどのことがあり私の人生における継続が危ぶまれることなどあれば私は頑張って改善すると思いますが、別にそれで褒められなくても構いません。私は継続していきたいだけなんです。つまり植物と同じになりたいんです。それでも私は植物ではないから、植物よりは工夫して、必要なだけのお金を稼げる仕事に転職したり、必要な知識をつけたりはします。

 

多分私はこういうことを言っていると、部長の心にかなわないと思うのです。私はもう何かを完成させたいとか達成したいみたいな風に考えたくないんですよ。野球選手がいっぱいヒットを打って歴代一位だとか褒められても、毎日ヒット打っていることを継続しているのです、みたいな気持ちになることがありそうじゃないですか。それが私の人生なんですよ。私にとってもそれがあるんです。歳をとってきたとか関係がない。ずっと継続して行くんです。完成とかなしに。でもこういう考え方ではダメだというんでしょうね。だから本当は私は自分が継続したいことと同じことを仕事にするべきだとは思うのですよ。例えば誰が住んでもいい家を作り続ける。それが仕事になるか知りません。可能かどうかも知りません。けど一つできたら私はずっとそれを続けていって、完成とかそういうことは全く考えないと思う。まだその自信がないんです。だから私は労働は養分にしながら継続ということをしているんです。

 

私が夫を愛していることも継続していることの一つかもしれない。それは夫がいい仕事をするとか、金を稼ぐようになるとか、私たちがいい家に住むようになるとか、そういうことは全く関係がないんです。ただ植物みたいに四季を過ごしているんですよ。ただ愛して生きることを継続しているんです。何かを収束させたり、完結させたり、表彰されたりすることには興味がないんです。

 

私が誰かに褒められたとしても、それは継続の途上に過ぎないのであって、継続は私がたとえ死んだとしても、まだ継続されていくんですよ。だから私は全くそれはどうでもいいんです。褒められて喜んだりしても、それは褒めている人や、褒められている人を見ている他人と同じ人生を模倣することに過ぎない。私は自分のすべきことを継続していく。それだけです。

 

 たんぽぽのタネが風に舞うように次の季節に向かって継続することと同じです人間の死は。来年もまた継続します。それで例えば世間でいう「進化」ということをするんでしょうかね?でも私はそんなことには頓着せず継続するんです。決して収束しない試行錯誤を行うんです。これは研究と同じです。その途上の何かが明るみに出ることもどうでもいいんです。