いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

移住に向けて

自分も結婚して、だんだん人生の目的というか、意気込みというかの種類が変わってきた。いちばんの目的は健康で長生きすることになった。また仕事に求めることは、私の価値観にあった仕事をできるかということが重要だと考えるようになった。私は特殊人材ではないので、どこで働いても今の所普通の給料しかもらえない。

 

労働力の価値としては東京では手取り22万円くらいの価値。

地方では手取り15万円くらいの価値になる。

 

今の職場で働いている限り、自分が大切にする人生の目的からはだんだん遠ざかっている。

会社の理念のようなものは頻繁に更新されているが、内部で行われていることは「とりあえず自分の責任にされないように手は打っておく」というような仕事ばかりで、全く末端の消費者とか利用者の姿は見えていない。

 

人を助けて、不便をなくし、良い人生を送る助けになりたいという自分の考えとは異なる。また打たれ強い人を育てる助けになりたいという自分の思いも無視されている。職場ではメンタル不調者が多い。メンタル不調者をどう考えても生み出している上司の下で働き、自分の価値観も損なわれていくように感じる。また労働時間も長く、通勤時間も理想よりは長い。

 

というか労働時間が長いとか、通勤時間が長いことが憂鬱に感じられてしまうほどに自分には全く関係のない仕事をしている。この仕事を通してまた自分で触発されて学んだことは、この会社に来なければ学ばなかったことだし、ここで学んでいることは他の仕事に使える。自分の人生という他には代え難いものも、他の仕事に使える。ならば自分の価値観を反映した仕事に投機しない手はないではないか。

 

次の仕事は求人サイトでは探さないようにしようと思うのだ。給料がどうでも、自分が歩いて、これをやりたいと思う仕事を見つけたら、その仕事をやらせてもらうよう頼み込んでやらせてもらうようにしようと思う。もちろんその場合には、自分で上司を選んだことになるのだから、その人の人格も確認した上で、かえって自分で上司を選ぶ自由があるのだから、それがいいじゃないか。

 

東京でそれをしようとすると、私は住む家がないので家賃が重くのしかかる。地方には旦那の実家があって住んで良いと言ってくれるので、そこに住んで、仕事を足で探し、自分で働くようにする。自分が好きになれない仕事をしている人間は醜いじゃないかと思う。いろんな面から見て本当に不都合しかない。それを自分の親を見て分かっていたのに、また私は固執してぶち壊しにしようとしていた。