いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

なんとなく納得させようとしている気がする

なんか人が死にそうなとき、勝手にその人が願ってたのではないかということを想像して、それに沿うような現実をピックアップして話しかけたりしてしまう。

元気で話もできるときは、そういうことは怖くてできないのだが、片方に意識がないとできてしまう。

 

こう思ってるだろうけど、現実は理想に近づいてるんだ。実はかなってるんだみたいなことを話している自分がいる。怖いことだと思う。納得して死なせようとしている自分がおり、色々と考えさせられる。

 

自分が無理して納得して死にたいかというとそれはかなり違うけど、もし死にそうなときに理想に近いけど全く別物のことを言われたら、なんか心がゆらいで誤解して死にスリップしそうで怖い。それでもいいかも?みたいな。

 

話は変わるが最近何となく考えることが多い。今の仕事も簿記の勉強も、自分は「教えてもらいたい」と思っていて、「学びたい」の気持ちではない。でも私は建築がやりたい銭湯がやりたい人の住む場所をやりたい。旦那を豊かな生活にしてしんぜたい。長生きしたい。人の安心のために色々やりたい。何かを書き続けたい。簿記の勉強もそのためになるのだろうと思う。だから初めて、自分で「学ばなきゃ」ではなく「学びたい」と思った。でも今の仕事は別になんの勉強にもならんので、程々にやりたい。

 

でも本当は近道をいきたいのだ。