いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

弊害のこと(なんの弊害なのかよくわからないことが大抵である)

登山をしているときに、地図読みを間違えていたら、違うっぽいです、こっちの道は多分つながってない方の道です、とリーダーに教えたら、「ありがとう、よかった。」みたいな感じになると思う。指摘することが実際にはそういうシチュエーションがなくて必要ないかもしれないけど、そういう反応をしてくれる人とじゃないと登山は行かないと思う。

 

オフィスで先輩の仕事を引き継いだときに、過去の分がおかしくなってたら、「これ結果がおかしいみたいです。方法がちょっと違います」と言うと、最初大体スルーされるのだけど、私はおかしいのが気分悪いから、確認してくれるまでずっとおかしいと言っていて、諦めない。そうするとすごく相手にプレッシャーをかけてしまうみたいで申し訳ない。そういうふうになってしまうのは何なのか。

 

山を無事に降りるという共通の目標がないからだろうか。それとも山登りと仕事は違うのに、私がおかしいのだろうか。

 

うまく行ってないときはこれがなんの弊害なのかわからないことが多い。そしていろんなところを変更して確認していると、自分の態度とか生活の方法とか仕事の作法とかをそんなに頻繁に変えること自体がおかしいのか、ちょっと引かれてしまう。

 

これがもしアスペルガー症候群の弊害なのだとして、それに関してもどのようにしたらなんとかなるのだろうって考えてしまう。

 

もしかして先輩の間違えていると思われる方法を一つ一つ今までのデータを見て、直し方を考えたらいいのかなと今書きながら思ったのだけど、それを私がやるより先輩が見たほうがわかりそう、とか思う。でもそれは私がやることなのかもしれないんだけど、先輩は何よりそれは今考えなくていいのではないか、みたいなことを言ってくれる。けど私が上司に聞かれたらそれについて答えられないから、やはり考えないといけない。そして考えるためには時間がめちゃかかってしまうから、他の業務を振ってくれないように上司に頼まなければならず、そのためには先輩から引き継いだ仕事について説明しなければならず、そのために先輩のやってたことを上司に報告するみたいな感じになってしまい場に緊張が走る。私はこんなこと正直どうでもいいのだけれど、仕事としてはどうでもよくないのが道理だと思うので苦しい。

 

自分はなにかおかしいことが起きると、そのおかしいことが起きるのはなぜなのかズブズブ考えてしまい、その結果もっと大きなことを見つけるのだけど、それに対する対応は一人でできないほど作業量が多いから、上司に報告するけど、上司はじゃやってみてと言うことが多くて、でも一人でできないのですということ伝えても一人でやってとなり、一人でやることになる。

 

一人でやってると作業が終わらず、同じ作業ばかりで疲れてしまい、具合が悪くなったりする。そしてその業務を引き継ぐときにまで仕事が終わらず、次の人が今度疲れてしまうということになる。私が悪い点も多分あると思うが、それについて考えるときがない。

 

家に帰ると簿記の勉強しなきゃってずっと思っていて、でも仕事のことが気になっていて、パソコンを職場においてきてもまだきになっていて良くない。もうすぐ春が来る。もうすぐ春が来るから大丈夫って思っている。これは社会人によくあるやつなのだろうか。

 

勉強ってするときは他のことはやめなければいけないと思っていて、本当は通勤もやめるべきだ。働かないで勉強だけするというのが良さそう。でもそんなことはできない。できなくはないけど、いやできるならやればいいのではないか…などと考えている。今の家は部屋が一つしかないけど、だから集中できないというのは多分嘘で、私の周りの勉強好きな人がそういう理由で家族と別れたりしているけど、結局うまく行かないということは自分の問題なのだ。でもなんの問題かというと基本的には働いてるのが問題。

 

でも働いてなければ簿記の勉強しなかっただろう。

 

前はやりたいことがあるならそれにまず取り組むべきだみたいなことを毎日思って苦しんでいた。でもやりたいことばかり取り組んでいたら、何か話し方などが雑になる。そういう人が多いように思う。変なことかもしれないけど、不如意の多い生活で目的を失わず狙い続けると、なんかいいみたいな感じがある。でも大切なのは着手しているということだろうと思う。違うことに取り組んでいるとしても着手しているからかっこいいと思う。