いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

人生でやること全部やった、という言葉の意味

お題「#この1年の変化

前職では工場事務みたいな仕事をしていて、あまりにも給料が上がる気配もないし、稼ごうという気合が全く感じられない同僚たちにやきもきしていた。一緒に仕事をしていた40歳近い人が、「もう子供作ったし家も建てたし、やることぜんぶやったわ」と言っているのを聞いて、そんなことだから給料上がらないんだよ。と思っていた。あなたはこの土地の生まれで実家もあって、だから家を買うお金も車を買うお金もあって、ローンも不安なく組めるだろうけど、私は親も東京で家も持っていなくて、バブル崩壊で仕事もうまくいかなかったんだから何も持っていないんだよ。給料が上がるように働きたいんだよと思っていた。

でも今中央区のオフィスで働いていて思うことは、私が間違っていたということだ。お金なんか稼げなくても生活が全体として充実したらいいのだ。お金フリークな同僚と鎬を削るきも起きない。ここでは協力して製品を世の中に送り出すということがない。協力し合って何かを作る喜びは計り知れない。それがたとえお金にならないものでもいいんじゃないか。もうお金なんてこれ以上稼いでも仕方ないみたいなことを話して、友人には理解できないという顔をされている。友人は将来のリスクヘッジのためにシェアハウスを経営して・・・などと熱心だ。

ではなぜ元の職場に戻らないのか、といえば、今思えば自分は基本的に意味がないと思う目的のために働くことは可能だが、その意味より多大な犠牲を払う場合はその仕事を続けていくのは困難だからだ。例えば、自分の家で作ればいいちょっとしたおかずの真空パックを作るために人がミキサーに巻き込まれて死ぬとかの事故が業界に当たり前によくあることとして起きる場合。この業界ではミキサーで死ぬことはよくあることだよな、みたいなのはバカすぎて話にならない。

 

一番よい仕事は、自分が意味があると考える目的のために、自分の体を自分の意志で動かして、自分がやらかした以外の被害を受けず、人も幸せにできたりする、そういう仕事だ。やっとわかってよかったですね。そしてそれは自営業のように思います。

 

 

人生でやること全部やった、(そしてこれからも人生を続けていく。死ぬまで。)という言葉のすばらしさはすごいじゃないですか?もっと気づくべきだった。(そしてこれからも人生を続けていく。死ぬまで。)の部分が当時の自分には感じ取れなかったのだ。若かったと自分のことを思うのは初めてだ。自分が若かったと気づいたとき、はじめて自分の生き方を取り戻し、若くなれる気がする。それまでは概念と言葉に染み付いた経験にとらわれているような。大人になると、「はっ」とすることは少なくなったけどじわじわわかってくる感じが多くなってきた。ただしそのじわじわわかってくるというのも、「いまこのようにわからなければ、つらすぎる習慣から逃げることができない」という地味なバイアスに操られているのかもしれない。でもそれでいいと思う。自分の感情と全く関係のないことに心魂費やして何になろう。せめて自分の心のままに生きてそのリスクを負って味わおうではないか。