いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

自分のハッピーエンドと世界にとってのハッピーエンド

刑法の勉強したときに不作為による殺人というのがあって、あまりよく覚えてないが、手を下せばその人は死ななかったのに、傍観していたとか放置していたからその人は死んだという場合、不作為による殺人って言って良いみたいな話だったと思う。

 

この会社もう潰れるけど、わたしにはもうなにもできることはないけど、わたしは最後まで添い遂げてハッピーエンドにして終わろう、というようなのは自分のハッピーエンドを優先して、社会全体のハッピーエンドのことは考えてない。自分が添い遂げたいと思うくらいの会社なら、自分が立て直せるくらいの人材になって、自分のハッピーエンドに安住することなく、環境も変わるしチャレンジングだけど、自分を磨ける挑戦をするべきだと思う。人の可能性は本当にすごくて、頑張ればいかようにも成長出来る。それなのに漫然と終わりを楽しんでいるようなのは、明日ミサイルが落ちてくるのが分かってて、それでもいつも通りのメンバーと部活を楽しむみたいな話。船に乗って逃げれば全然逃げられるのに、手のひらサイズの死を優先。

 

違う話だけど世の中にはいろんな仕事や仕組みが用意されていて人の不正を防いでいる。不正も早期に発見すれば、その人の人生を破壊するほどに拡大しないうちにやめさせることができる場合もある。それを不自然な仕事だと思いながら漫然とやっていたら、見逃して、不正がおおきくなってしまったら、もうどうすることもできない。自分の務めをきちんと果たすことがどこかの個人の生活を守ることにつながると思う。

 

これ不自然だけど、今日はハッピーエンドにして早く帰りたいとなって、早く帰ってしまうことが続いて、まあこんなもんでしょみたいになると、結局あとあとになって人の生活を壊してしまうことになりかねない。

 

自分のハッピーエンドは追求しているうちも耽溺的な気持ち良さがあるし、自分自身をストーリー化していくコンパクトさもあって、掌に収まる自分の存在が気持ちいい。

 

昨日は地震があった。

というか自分がこのように考えているということを何か聞かれるたびに話すわけにもいかないのに、なぜ人生における決断をそうしたのかとか、いちいち聞かないで欲しい。知ったところで人生になんの影響もないではないか。