いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

はじめて夫婦で投票に行った  昨日借りた本の紹介

はじめて夫婦で投票に行った。前の選挙の時は旦那が痛風になっていて一人で行ったのだったと思う。近くの中学校へ二人で行って、この校舎は後者のほうは大きく見えるが、校庭のほうはそんなに大きくない、むしろ小さいというような話をして、久しぶりに見るから「校庭」という言葉が出てこなくて「グラウンド」といった。今書くときになって、あれは「校庭」だと思って書くのである。

 

朝起きて冷食のグラタンを食べて、投票に行ったのである。投票会場に「当たり前のその先に」という垂れ幕が飾られていたが、自分としては今回の選挙は「当たり前をまず先に」取り戻すための選挙である。それにしても候補者が十分に上がっておらず、これという候補者がいなかった。比例投票で好きな政党に投じるしかないな。

 

昨日は旦那は筋肉痛のような痛みが全身にあるといって寝ていたが、最近これがたまにあるので、線維筋痛症というやつではないかなと思っている。以前より都会に住んだこともあまりないのに、引っ越して来た2年前からだんだんにコロナウイルスが大流行をし、外にも出歩けなくなってしまい、実家にも満足に帰れない。実家の猫にも電話で話しかけるだけとなってしまった。

 

先日旦那のお母さんが三千円のお小遣いをくれて、二人でおいしいものでも、と言ってくれたので、昨日旦那が昼寝をして元気になってから喫茶店に行って、私はそこに置いてあったつげ義春の「赤い花」を読み、旦那は「よつばと!」13巻を読んで、ペンネを食べおしゃれな飲み物を飲んできた。

 

二日連続で二人で出かけることができ、コロナウイルスも収束してきているので、安心した気持ちだ。

 

 

 

 

いつも聞いているポッドキャストの配信者の勧むるによって、矢内原伊作の「ジャコメッティ」を読んでいる。この作品がこの十倍の長さになっても読み続けていられると思われるような面白い本だ。

ジャコメッティのセリフをたくさん引用しているので、格言集を読んでいるような気持になって、ちょっとお下劣なことをしているなという気持ちになる瞬間もあるけど、読み続けてしまう。

私も絵を習いたいなと思う。休みの日を使って、話をしながら相手を描くような生活はいいなと思う。

図書館に行って上の本を借りるときに、ちょっと目に入ったので久しぶりに川端康成でも、と思って借りたが、やはり女性のことを書いているとき、あまりにもそれが古色蒼然とした女性のあり方なので、「はいはい」と思ってしまい、文章の巧みさなどは確かにそうではあるが・・・と食傷気味になってしまう。

投票帰りの夫婦の姿と思われる人たちが、行きも帰りも周囲に歩いていた。投票に行くときの服装というのは、何か不思議なところがあるなと思う。これから投票のために出歩く人の年代も変化すれば、服装も変わっていくのだろうけれど、その何とも言えない、遠出するのではないが、寒くなったりしても困るからと備えたような姿を見ると、20年ほど前に親が投票に行くとか言って児童館へ入るのを待っていたあの頃の街を思いだす。そしてそれからもうすでに20年も経過していると思うと、自分も大した歴史的な物体になっているという感じを受ける。最近足の皮が乾いていることが多く、それを見ると私も知らぬうちに28年もの人生を生きているということがわかる。

 

子供をもしも作ったら、生活が完全に早く過ぎ去るようになり、この人生が指の間からさらに零れ落ちるかのように過ぎていくことを思う。しかし自分が旦那と結婚して、こんなに素晴らしい日を過ごしており、勉強にも打ち込んで、生活を前に進めようとしていることを思うと、自分にも子供を育てることに責任を持てる何かがあるのではないかと思うこともある。

 

何となく自分が風呂なしアパートの柱のような気がするのだ。わかりますでしょうか。わからないと思う。多分私が数十年後に生きていたらこの記事を読み返して、やはりわからないというと思う。そのくらい初めてで、未確認の気持ちだ。でもこれはただの怠慢だろうか。

 

旦那が今日、やらない後悔より、やらなかった後悔のほうがきついということは科学的に立証されているらしいというようなことを言っていた。そうかもしれない。そういう安易なことは自分ではなかなか言い切れないけれど、やったということは少なくともやったことについてその後のことも語れるということで、話題が増える。やらなかったことについて話しまくる人はそんなにいない気がするし、それをずっと聞く機会というものもあんまりない気がする。

 

ならば何でもやってみてみようかなという気にもなる。しかし不作為(やらないこと)も「不作為」をしているという行為だからやるうちに入るんじゃないか。やらないことのうちにも「やらないことを選択してそうする」というのと「やることにただ踏み切らない」という種類があると思って、でもそれを自分の中でしっかりどちらなのか記憶するためには、とことん考えて選択することが必要で、あくまで世間で「作為」とされることだけを選んですることだけが「やる後悔」の「やる」に入るわけではないのではないかと思う。私たちの世代に特有のことかは不明だが、「やる」をやらないのであれば、代わりに何かほかのことを「やる」んでしょうというようなプレッシャーがある。けど、「やらない」をやる、と決断したからといって、別のことをやらねばならないというのは変じゃないか。分岐に出会ったから決断したのであって、なにか動くことありきで決断したのではない。