いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

継続的な人生が未知

意図的に生活を細切れにして3年ごとに全く異なる生活を始めようとしてしまう。本当はもっと細切れにしたい。何一つ継続的な人生が理解できない。時間の流れというものもわかりにくい。すごく時間の密度が不均一で、ゆっくり進んでいくと思いきや朝から急に夜になっていたりする。何を基準に生きているのかがわからず、毎日という概念も寝ることで仕分けられるだけだ。

そういう中で予定がたくさんあると、乗りこなせない時間というものが急に他人に迷惑をかけるレベルで差し迫ってくる。毎日違う予定、違う人物、違う場所に対応しなければいけないが、時間は感覚なく流れている。あるときはいきなり朝の時間に真夜中が貼り付けられるように感じる。どでん!と夜が現れる。そしてその日は何もできない。よく作られたドラマの中で時間を都合上操作されて暮らしているかのようだ。

おそらくもっと寝る必要がある。継続的な来月も生きている存在でいるのは大変。子供を作るのが怖いのはある意味これが原因だ。死ぬとか消えるとかいうことができない。死ぬとか消えるとかする選択肢は旦那がいるからないのだが、子供がいるともっとできない。自分はおかしい。継続的な人生というものがイメージできない。

次の約束はしたくないし、将来の話もしたくない。只今をミクロに生きたいのだ。身体の感覚をもっと感じたいし、音を聞きたい。家がほしいのは継続的生活がしたいからではなく、社会的に継続できなくなっても家があればそんなに激しく働かなくて良いからだ。穏やかに消えていることができる。私は幼い。時間も良くわからないで生きているのだから。

 

自分がサラリーマンの家族と暮らさないし暮らせないのは、継続というものが全くわからないからかもしれない。継続を前提に語られる言葉がどんどん滑っていって全然つかめないし、心は日銭を蕩尽している彷徨い人なのだ。

 

自分はあまりにもてきとうでやっていけないように思う。