いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

中はこしあんで周りはねりきりです。ねりきりだから美味しいですよ。

商店街を歩く。タイトルの言葉が和菓子屋から聞こえてきたので、タイトルに採用しました。

ホッケの焼いたの400円。

古本屋の「波止場日記」1,400円。

買いはしないけれどいいなーと思って見ている。いいなーと思うだけで良いのではないか?最近欲しい物をすべて食べることはできないし、体を壊してしまうということが割と実感としてわかってきて、正直これ以上お金を稼ぐのは良くないのではないか?無駄ではないかと思うようにもなってきている。

 

旦那の実家はもう仕事がなくて、郵便局の暑中見舞いとかお中元とかの配達のバイトしかない。お父さんはずっと求人を真面目に見ているけれど、ない。田舎だから仕方ない。自分にはこういうときに仕送りをする稼ぎはないので、そういう意味では稼ぎが足りない。でもこういう場合に無理をして仕送りをするより公的な補助を受けたほうが幸せではないか。

 

そう思うと今の給与でいいけど長く働きたいと思う。そのためには悪いことをさせられないように身を守りたい。でもやっぱり人生のうち5年くらいはめちゃくちゃお金を稼いでめちゃくちゃ使ってみたい。

 

 

義母さんは他人の敷地で野良猫に餌をやったら野良小動物が嫌いな土地の持ち主の逆鱗に触れ、喧嘩になった挙げ句、殺した野良小動物を投げつけられたとかの話をしていた。まるで深沢七郎の「笛吹川」の世界。

 

 

普通ならここでこの危ない土地の持ち主の人とはもう関わらず、そんな話ももうやめようと思うところだが、野良小動物のためにまたでかけていきそうな勢いで、アドレナリン出まくりの上にめちゃケタケタ笑っていて怖い。電話したあと怖くて黙り込んでしまった。嫁姑問題(猫関連)の発生である。

 

最近里親制度のことを調べていて、自分の子供を作るでも里親になるでも、何事も中庸を心がけ、ちゃんと人と話をして、極端に走らないことが重要だと思った。というかそうでなければ親などにならないほうがいいと思う。とか言っているのはこれ相当な義母批判になるのではないかと気づき申し訳なく思っている。けど普通に怖い。

 

親になるには「旦那が死んだら私も死ぬ」みたいなことを言うのはだめで、子供に対して親になるのは、株主に対して継続企業であるようなことだから、間違っても親父が死んだらこの会社は解散ですみたいなことをいっていたんじゃだめだ。安定性の演出みたいなものが必要だ。そうすると生命保険とかにも入るのかなと思うけど、どうもなんかな……。

 

親はどうあるべきというのもそうだけれど、子供はいかに社会で育てるべきかという学生時代の伏線みたいな課題が自分の問題として眼の前に一皿の料理のようにでてきた。