いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

素朴な反応に対する反感

自分の親と自分の遺伝上の繋がりを検査しないまま人生を終える人は多いのではないかと思う。自分の親が死んでしまって遺骨は墓に入れたような場合、私もそうだけれど今思い立って本当に自分が親の子供なのか調べることはなかなかできないのではないか。

例えばあなたは私の子供ですと言われて生んだときの写真を見せられても、作った写真かもしれないし、それが自分なのか否かわからない。戸籍だって本当かわからない。

そんなことに関係なく私は存在しており、それだけが私にとっては確かだなと思う。

 

 

テレビで番組やっていたことをきっかけに、里親の本を読んだけれど、ハードな環境で育った子供の場合何かと予想外の行動を起こすことがあり、多分普通の心理学とか保育のことを広範に学んだだけでは、これがあれか、というような日常のトラブルを乗り越えていくためのきめ細かな知識を得ることができないと思う。

 

里親をやっていて「偉い」と言われると嫌だということが本に書いてあって、それは私が「働いて偉い」とか「勉強して偉い」とかいわれると黙ってほしいと想うのと同じだと思う。それは金銭面や精神面やいろいろな事情を勘案して、私がそれを選んだ。選択して行っているというにすぎない。

 

他人がなんと思おうと気にしなければ良いとは思うけれど、大人になると評価された言葉に返答する必要が出てくる。子供の場合は黙っていればいい。そんなときに簡単に思ったことを言うと変な感じになる。でも簡単に思ったママを言いたい。でも多分それ言っても「でも偉いよ」みたいな返しになって余計イライラしてしまうことだろう。偉いというより私にはこの道しかないのですよ。偉いとかではなく、それが偉くなくても私を放っておいてほしい。

 

本を読んでいて、家庭で育つことが施設で育つことより子供にとって良いというような内容があった。家庭で育つということはいろいろな人の感情を背負ってしまうことになる。私は家庭で育つことが良いというような考えはやはり家庭である程度幸せになれた人の幸せな偏見だと思う。

それよりも施設が家庭が与えうるものを与えるよう変化する必要もあるのではないですか。子供のときに自分で判断する暇もないような目まぐるしい生活の変化をやらされて、やはり家庭に子供を引き込もうとするのは大人のエゴだと思う。けれどこの世の中には家庭で子供を育てることで本当に人を幸せにできるような里親もいるのだろう。そういう人をどうやって見分けることができるだろうか?

家庭というものをそこまで偏重しなくても良いのではないかと思った。家庭が良いものと言いたい人は「家庭を持っている作れるわたし」と「作れないかわいそうなあなた」という上下の関係を無意識に内包している気がする。家庭があって育った人が社会の大半かもしれないけれど、そうじゃないからと言って無理矢理に自分たちの環境が良いのだと決めつけて、そっちに寄せなくても良いのではないか?環境の良い悪いという明確な決めつけがあるから、辛くも思うのだと思う。ただ事実として家族は持たなかったというだけで良いのではないか。

 

本の中にあった「虐待された子は虐待を誘発する」ということにはハッとさせられた。とても苦しいことだと思う。自分もそういう行動を取ったことがある。