いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

財布を全廃しよう

財布を全廃しようと思う。

財布があるから色々とお金を使ってしまうのだ、と思い、財布を持ち歩くのをやめようと思った。

 

ペイペイを使えるところもあるけれど、ペイペイを使えるところでの消費はだいたいくだらない(コンビニなど)なので、ペイペイを使おうと思ったときはその消費を辞めるようにしたら良さそう。

 

あと物を売るというのも良いと思う。

ものを売るのはかなり良くて、お金になるし家は広くなる。

 

しかし東京にはものが溢れていて、なかなか難しい問題となっている。例えばそのへんに値札をつけてものをおいておいても売れない。本を売るフリマとかに本をもっていけば売れることもあるけど、本を売る場所に座っているほど暇ではないし、衛生的に危険だ。感染症の観点から。

 

すごい困ったなーということではないんだが、コンスタントにお金が余らないなという状況。

 

財布を持つのをやめ、勉学に努めようと思う。という気持ちと、好きなサラミくらい食べたいという気持ちがせめぎ合っている。そこで良いアイデアとしては、サラミとナッツだけは5千円分買って良いというのが良いかと思う。

 

外で買い物をするというのは良くないので、できるだけ通販で買うようにもする。そう思ったのだが、結局塩分を食べても体に良くないし、どうしたらいいかはわからないな。運動をしたいという気持ち。とりあえずお金は使わないようにしよう。

 

なんというか、私がサラミを買うことには意味があって、それは自分がちゃんと働いていて偉い大人だという感覚を得て(子供の頃は食べられなかったため)、辛さを忘れてもう少しだけ辛さのない日常を感じようという感覚に過ぎないのだと思う。

 

この感覚は普通にめちゃくちゃ面倒くさくて、このせいでさらにお金が余らなかったり貧乏になったりして苦しみが増してしまう。

株をやってお金を増やそうとかまず考えるだけで苦しみが増している。私は考え始めるとのめり込んでしまいました他のことが手につかなくなってしまうため、それより先に取り組んでいたもっと重要なことがいつの間にかボロボロになったいるのを見て悲しくなる。そしてその苦しみをもう少しマシにするために…となって更にだめになる。

 

幸せにならなくても良いのだという理解を深めて、自分が考えている幸せは本当は不幸なんだという、本当はわかっていることを見つめ直したりする。

 

こういうことはいうのは良くないと思うのだが、旦那にも贅沢な食事は良くない。体調にも良くないことになる。なので本当はちゃんと食事を作って食べてもらうべきなのだが、お金の心配で疲れてしまい、たまにテイクアウトとかをしてしまう。こういうのは本当に不幸だと思う。いまはっきりと悪循環に気づいたのでもうやらなくて良いと思う。

 

旦那は従来の私に比べてかなり自制心が弱いので付き合っていたらいつまでも怠惰な暮らしになってしまう。そこが良い所(私がどうしてもこうじゃなければいかないと思っていることも、別にこだわっていないなど)でもあるのだが、あくまでいままで食べてこられたのは私の勤勉さと節約の賜物なので、私だけでもストイックさをすててはいけないと思う。そうしないともはやそろそろ精神病になると思う。

 

ここまで書いたところでもう財布とか見るだけでも気持ち悪いしサラミとかナッツなどはヘドロと同様のものだと思えてきた。

 

そもそもお金がとても嫌いなので銀行に溜まっていてくれれば一度も手を触れたくもない。

 

最近親戚に桃を送ったのだが、送ったら送ったで高すぎたとか無事に届いたかとか心配していて時間の無駄だと思った。とても面倒だと思う。手渡しで渡せるもの以外送るもんじゃないと思う。