いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

蕁麻疹

体中にブツブツができてマジでかゆいかゆい。こうなってみるともはや電気代とかそういう話ではない。とにかく体を温めて、楽に暮らしたい。生きていくことがこんなにも困難だとは。とかいう気持ち。寒いからコープを頼んだけどもはやコープの人に会うのがだるいレベル。こないだ出張したことを褒められてるけど出張したことを褒められていることすらめんどくさいレベル。布団を外に干したのがいけなかったのか。こたつに入りすぎたのがいけなかったのか。バナナ食べてたら少しだけ平和な気持ちになる。

 

バナナの効用は主にこの平和な気持ちになるところだと思う。私はバナナの平和な面だけを見ていたいが故にバナナの病気について調べるのを辞めた。私は今少し植物について勉強しているのだがその勉強というのがなかなか偏った部分になっていて、つまり私たちが食べる植物が病気になったりするに対する対処の方法を勉強しているのです。つまりそうやって育てた植物が食品になるわけです加工食品と言うのもそういった原料ごとに作っていくわけです。ただ私はだんだん勉強して気持ち悪くなってきて自分でも蕁麻疹になってしまったのです。植物は病気などならずすくすくと育つのが1番良い。人間は蕁麻疹等にならずに暖かく過ごすのが1番良いという純粋な真理を身をもって感じるわけです。茶を飲んでも寒いものは寒いと言うのは君植物に同じでしょう。いくらカルシュームが足りないと言ってもカルシュームばかり上げてもやっぱり植物としては寒い。たまに思うのですが昆虫は何を考えてるのか昆虫は食べ物を目指す昆虫は交尾する昆虫が気候に合わせて行動しているであれば昆虫は何もかも考えているのではないですか。都会を離れて思ったのですが私たちの行動は主にというか、全く食べ物を目指す交尾する気候に合わせて行動することが全てだと思う。それ以上なら高度なこともない。つまり人は「本質的にはなんたらかんたら」などと言うが結局生きていくためには1つのコップを持ち上げ牛乳を飲んだり気候によってはスープを作って飲んだりと昆虫がしていると同じことをしている。その行動の本質はこの問題の本質はと私はいつも言っていたそれが私の大学生活だったしかし本質を指摘しても何も始まらない。絶滅しそうな虫を図鑑で見るだけではその虫を救えないのと同じように。私は掃除できないことの本質は発達障害だからであると指摘したところで何も始まらない旦那私に水切りネットの替えかたを教えた。だから旦那はえらい。

人間は虫と対して変わらない。会社が潰れそうであって給料が出なくなりそうなのであれば食べものを目指すことを妨げられるのだから職を変えたりする。奇妙な新人が来ればとりあえず避けておく。継母がきらいであれば継母がするのと逆のことをする。それは昆虫が光が嫌いであれば土の中に潜るのと似ている。私たちは虫だと思ったら虫を殺す薬について勉強するのも気分が悪くなった私たちは虫だ。こないだ同僚が虫を展示しているところに遊びに行くと言っていたヘラクレスオオカブトの角の裏には家が生えているそのまま裏に毛が生えているけれどもそれが一体なんだろうどうせ死ぬのに虫も人間もどうせ死ぬのにいつも飲んでいる紅茶が美味しくないやりたかった仕事がやりたくないそんな奇妙なうつ病があってたまるか。よく考えたらこないだから自分で作りすぎたものを捨てている。作りすぎたのではなく本当は食べられていないだけではないのか私はスープを作ったほうれん草とかぶと人参黒い人人だと思っていたら切ったら紫だった。しかしスープに入れれば緑に飲まれた、

かぶは味を残すだけになった。前々から思っていたのだが寒そう寒さを避ける気持ちとその感覚と私たちが思考と呼んでいるようなものは何が違うのだろうか私はそれを前々から思っていただから人間に意思というものが確固としてあると考える刑法が許せなかった。人は環境によって変わる。育ち方によってはそう育たねばならぬ場合もあるら。人は環境に支配されているなどと言いたいわけではない。ただ虫が寒さに応じて行動を変えるように私たちも環境で行動を変えその行動が外から人の性格のように見えているだけだと思います。私は今田舎の中小企業で働いていてたまに先輩に寝癖がついていると怒られたり女なのにまるで外見を気にしていないと言われつつそこに私はそんなこと関係ない位かわいいもん的なこと思っているそう私はかわいい虫がかわいいのと同じように私は電卓をつかう虫

 

あ、ちなみに大丈夫