いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

土曜日のこと

雨が止んだのは音が消えたからわかった。先ほどからスマートフォンには洪水警報の通知が届いていた。私は眠るほかには旦那のおなかに触ったり、サルガッソーの広い海という本を読んだり、旦那が入れてくれた温かい紅茶を飲みながら過ごした。

 

 雨が止んだので自転車をひいて買い物へ行った。こないだコロナウイルスの感染のあった界隈にある地元の八百屋さんとスーパーだ。スーパーでフルーツグラノーラのある場所を店員の人に聞いた。こんな時にはここで働くのが怖いだろうに、不似合いなほど明るい対応をしてもらう。吹っ切れた人間の感じがあった。誰しもこんな風に状況を受け入れてしまう。この状況をそれぞれの人がそれぞれの方法で受け入れているのだろうが、どのように考えているのか、とても気になる。

 

マスクは今でも満足にコンビニなどに出回っていない。というかよほどレアな時間に歩き回らない限り、見つけることはできない。先日銀行周りのために変な時間に出かけたところ、ちょうど店員の人が並べるところに出くわしたので買うことができた。勤め先の会社でもマスクを持っていない人に対して配布が始まった。在庫は補充されているのだろう。ちょうど補充される頃になって政府からの布マスクの配布が始まるらしいというタイミングのおかしい話だ。

 

八百屋へ行ったら八百屋さんのおじいさんを息子夫婦が邪険に扱っていて不快に思った。ここに買い物に来る人はおじいさんと安い野菜が好きで来るのに、あほなことをするものだ。おじいさんは耳が遠いのであまり話しかけても返事をしてくれないのだが、それでもみんながありがとうとか、コロナ怖いねとか話しかけている。八百屋の屋根か何かが雨漏りしているようで、おじいさんが工務店に電話していた。今見たらよくわかるから、雨が止んだばかりの今来てほしいなあと工務店の人に相談していた。HOKUTOのマイタケよりもきめの細かいおいしそうなマイタケを見つけてこの店で買うことができた。あとひねくれてしまっている新玉ねぎも、煮込みにするから構わないので、ここで買った。アメリカ産のブドウの干しブドウもたくさん入っているやつを買った。イーストを買ってパンを焼きたいのだが、これがなかなか難しい。何が難しいと言って、イーストが売っていないのだ。イーストのような不要不急のものは入荷しないのかもしれないが、家にいる時間が多くなったからパン焼いてみたいという気持ちが寸止めだ。

 

近所のせんべい屋さんがつぶれるといやなのでせんべい屋さんで買い物をした。正直せんべいはそこまでうまいせんべいとは思わないのだが、ここにせんべいが売ってるというのはなんかいい。帰宅するとき卵を割らないように気を付けてハンドルに袋をぶら下げて帰った。フルーツグラノーラはたくさん安くで買えたので、しばらくはちょっとずつ食べれば買わなくてよい。

 

私自身は毎日何かを食べたり飲むという習慣ができにくい人間である。紅茶とかも買ったら飲み切らずに存在を忘れ去ることがあるし、グラノーラとかもおいしいなと思っても1か月とか食べ続けることはまずない。それはひとえに忘れてしまうからなのだが、旦那は違って習慣を覚えている。だからそれをする旦那を見ていて私も食べるかとか飲むかとかなって、紅茶とかグラノーラもすぐになくなる。そういうことは一人暮らしの時はなかったので、面白いなと思う。

 

図書館もコロナの感染防止のために業務をやっていないので、前回借りた本を大切に読んでいる。これもまたありだな。と思う。ゆっくり本を読む時間なんて本当はないのだが、ゆっくり本を読みたいと思っていろんなことをやらないでおいて本を読む。眼鏡を拭かないで本を読んでいたのだが、それは眼鏡を拭く布を出すのが面倒だったからだ。

 

買い物へ行くときに湯沸かしポットに水を入れたままふたもしないで水道の蛇口の下に置きっぱなしにして出かけてしまった。それを旦那が見つけてちゃんとコードにつないで湯を沸かしておいてくれた。私はとにかくすぐに忘れてしまうので、こういうことには別に驚きもしない。自分一人で暮らしていたら無言でコードにつなぐのだが、旦那が何でこういう風なんですか、とかいうので、笑ってしまい、そういうこともあるんですよという感じだった。なんとなく、先への旅をしているような感じ。

 

買い物の外出は最低限にしており、できるだけ二人じゃなくて一人で行くようにしている。行くときは自転車で行ってすぐに帰るようにしている。だが仕事は行っている。

 

自分の人生はどんなに「ええええええええ」っていうことがあっても面白いので、もうこれは死ぬ以外のことだけしていれば普通にかなりいいものになるんじゃないかと思う。