いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

怒りについて

 なんでそんなに勉強が苦しいのにいつまでも勉強したがっているのか。と自分でも不思議に思うことがある。私は割と有名な大学に在学しているのに、そこにいるアカデミックな人たちは結局自分のことしか考えていない。別に批判するわけではなく、ただその人たちが学術的な人間で、研究、思案をする人で、私は一人の労働者としてだけ存在しろという秩序のあり方には納得できない。結局誰にも耳を傾けてもらえない場所から私は来た。ただ過ぎ去っていくことなどできない。私は勉強がいいことだと思っていない。海を見たりすることの方が好きだ。海岸沿いを歩いて測量するような仕事なら一生好んでするくらい、風景を見ることや歩くことが好きだ。勉強は目が悪くなるし、お金にならない恐れがある。学術的らしきひねくれた人と話さなくてはいけない。社交辞令、権力、横並びにしか行動できない人たちの集まり。動くよりも動かないでトラブルを避ける人間ばかりだ。見渡す限り一面辟易するほどの不動。

 

 私は何かといっては排除される感じが許せない。こいつはダメだから置いておけばそのうちいなくなるだろうと思われると、絶対ここにとどまってちゃんとやってやるんだと思ってしまう。できなかったことはいつでも心に残っている。反抗的だし、負けず嫌いだ。バカにした人の方ではもう忘れててもこっちではまだ覚えている。

 

 何かバカにされたり、ダメなやつとかみなされたなら、「俺の人生の汚点だ!絶対に克服してやる」と思ってしまう。私の人生はそんなことで埋め尽くされている。基本的に何をしていても怒りを感じている状況だ。また自分だけではなくて周囲の心をよく知り合っている人がそういう目にあっても、一緒にそれを感じてキレてしまう。最大の問題は人が死ぬたびに激烈怒りと憎しみを感じるという点で、なぜ死ななければいけなかったのか理由を知りたい、と考えるあまりにそれがわからないから刻印のような怒りにつながる。基本的に怒りを糧に生きている。怒りに引っ張られて人生の方針が決まっているのだ。やめようと思ったが、怒り以外に身をまかせるものがないからに、なんともしがたい。

 

 私はストア派の本を読んでも、これは結局怒りの感情が源になってこういう考え方をするんだろうとしか解釈できない。結局怒りによる原動力とか自律しか理解できないのだ。

 

 まあたまに思う。これは本当に怒りなのかと。この社会では怒りとしか名付けられないものだが、でも怒りとはちょっと違うものなのじゃないかと。別にこの情動に名前などいらないじゃないかと。でも社会で生きていく上で、その原動力は何かと聞かれれば、この社会では怒りというものであると答えるほかない。もちろんそうは答えないが、そうは答えないとき、怒りと呼ぶべきものが隠されていることを隠してしまうことにまた怒りを感じてしまう。葬り去られてたまるかと、私自身よりも私の怒りの感情が申し立てている。

 

 多分生きている限り私は自分の怒りと疑問を解決しようとし続けると思う。分野や場所は変わっても同じことだろうと思う。それはわがままなのかもしれないが、人生はわがままに生きるしかやりようがない。

 

 別に大学が大学だからいくんじゃない。排除されたくないから死んでも排除されるままにはならない。私はもし子供がいたら別に大学に行った方がいいとか、勉強した方がいいなんて言わない。ただ不自由のないようにわがままにしてやるだけ。私は勉強が勉強だからやっているんじゃないし、就職が就職だから就職するんじゃない。ただ排除されたままになりたくないから、意地でもやるというだけ。子供だね。そうやってやってるうちにまた何かから排除されるのだよ。自分なりの幸せという感性がないからこんなことになってるのだろうか。

 

 

 

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)

 

 

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