いのちばっかりさ

生きている記録。体を鍛えて学び働きたい。

オリンピックを見ていない。

何を見ても面白くない。現実に自分が感じることが一番面白く、糠床から糠漬けを引っ張り出すとか、奈良の丘を歩いた時の気持ちを思い出したりするのが面白い。うなぎを箸つかんだ時の感触とか。

うなぎをつかんだ時、人が周りに多くいた(店が混んでいた)ので、もう少し感触を覚えていたかったけど急いで食べてしまった。私の人生には人が多いことが無駄で邪魔である。できるだけ旦那と二人でいたい。世の中でサービスを受けるのは面白い。けど自分でやったらもっと面白いだろう。サービスを受ける時、自分が働くのは休んでいる人にサービスをする役回りの日だからであり、その分自分は休みの日にサービスを受けている。サービスを受ける為にお金を払う。という考えがやってくる。交代で休んでいるみたいで、赤ちゃん同士で食事をあたえあっているみたいだ。なんだか滑稽だ。

まだ色々試していないが、一つのところ、たとえば東京にいる限り、お金を使ってできることはそんなことくらいしかないということを思う。親戚の子供にお小遣いをあげるのとかもそうだ。自分が子供の時にもらったから、子供にあげるとか、子供の時にもらわなかったけど自分の子供にはあげて欲しいから親戚の子にはあげるとか、今はそういう役割の時だからみたいなことが多い。そういう役割は全く興味がなく、自分が子供の時を振り返っても、一人でいたかったと思う。

自分が子供にお金をあげるより、システム的に子供達に皆平等にお金が行きわったって欲しい。子供だから親や親戚にたよらないとお金がもらえないというのは不公平だし、必要なものなら手に入れられるようになるべきだと思う。お金じゃなくても食べ物でもなんでも、労働を禁じているならちゃんと配給してほしい。自分に関係する子供だけが豊かになって欲しいと思えない。

自分は役割から離れ、ちゃんと環境を感じて歩き回りたい。こんなことを考える余裕があるなんて余裕のある幸せな人間だなと思う。世の中では円高や円安に一喜一憂する人もいるというのに。まるでだらしなくなったように何も感じないで、夏の風にむされている。

 

しかしそれは労働させてもらってるからだ。仕事のない人や仕事しても食えない人と自分の間に何の違いもないのに、自分は仕事して一応食えていて、食えない人もいる。だから誰でも食えるようになるべきだと思う。