いのちばっかりさ

生きている記録。生業。放送大学。本を読む。入道雲100年分。

人間のことを考える


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田舎に戻るか都会にいるか、違う都会へ引っ越すかは難しい問題だ。

旦那の家族のいる関東近郊の地域へ引っ越すのは、家があるから良いが、家しかなく、地方新聞を見ても月給20万円の仕事があれば良い方でそれだと手取りは15万くらいだと思うし、通勤のために車を買ってガソリンを入れなくてはいけない。

 

何も残りやしないじゃないか?

 

コロナウイルスの影響で旦那の家族にはもう郵便局バイト程度しか仕事がないのだけど、期間限定だし、生活費がない。そのまま行くと生活保護になるわけなのだけど、私は生活保護をもらうことは悪いことだと思っていなくて、でも「生活保護をもらってはどうか」という発言には世の中では色んな意味があってどうなるかわからないので、口にしない。旦那に対しても直接言わない。

 

旦那の実家の地方自体は好きで、移住したいではあるのだが、これから長い人生を少しでもお金を稼がなければいけない。お金は経済、人の生活を回す道具で、それを持っていないと社会の流れから弾かれてしまう。自分が世の中をどうしたいとか考えてもなんの影響も与えられなくなってしまう。

 

自分が田舎に帰って、旦那の両親と自分たちが一つの世帯になったらわたしが4人の大黒柱ということになり、流石にそれは社会が私に求めて良い奉仕を超えていると思う。そういったことは引き受けられないと思う。さすがの社会もそこまでのものを私に与えていないのだから、私もそこまでの奉仕は行わないつもりだ。

 

よく考えたのだが、私は仕事において、勉強したことをさらに活かして働くことで、仕事がどんどん面白くなって、仕事がもっと自分の思想を反映するものになって、仕事がもっと私に理念的な苦しみを与えるようになって、自分がこの世界に残して置くべきものを煮詰めてくれるようなことに重きをおいている。

 

だから今すぐ仕事をやめて、移住して仕事を探せばよいというような考え方はやっぱりできないし、これからのことは考えないでもなんとかなるというような捨鉢な気持ちにはなれない。自分の仕事はたしかにどうでも良いものなんだけど、それでも主夫と一緒に暮らしていけると思う仕事をできるようになれるようにと(まだ安定のレベルには達していないが)いつも頑張って勉強しているんだ!

 

決してお前らとは違うというような気持ちではないけれど、もちろん今のレベルに達することができたのも完全に幸運の致すところなのだけれど、だからこそこの全てには再現性がないし、だから失うことは大変なことなのだ。私は割とこの幸運を活かそうと苦手なことでも取り組んでは来た。そのことは喜びとして振り返ることができるのだ。

 

いやそんなことは正直どうでも良いに違いない。私は困っているのだ。私は親族というものが嫌いなのだ。「ウチ」と「ソト」があるのならわたしは常に「ソト」でいたいし、「ウチの戯文寿司」と言われたくない。私は私。

 

他人からするとこれは「我が強すぎる」というやつなのかもしれない。

 

最近旦那のお母さんと子供を作るか作らないかみたいな話をしたときに、私ができたらできたでいいですねー、みたいなことを言っていたら、「良かったわねー戯文寿司さんが子供を生んでくれるってよ」とお母さんが旦那に話しかけたのだが、その時私は冗談抜きで本気で「やめろ!黙ってくれ!二度と言うな!」とおもったのだ。

 

私は子供を「産んでくれる」のではない。産むのだとしたら自分の意思で自分の意思のために産むのだ。そうでなくて、誰かのためとかなにかのために子供が産めると思うか?ありえない。

 

生むのだとしたら私は一人でも自分で産んだ子供なら育てていくという気力で生むのだ。誰かや何かのために重大な責任を追って出産をするはずがない。私は周りが全員死んでも自分で生んだ子供なら育てていく。誰かのためにやることでそれができるわけがない。

 

時間も体力も命と変わりない。何に使うかは自分で決めるし、自分の意思によってしか使わない。私は連綿として居並ぶものに名を連ねるつもりはない。私は私以外ではない。私は私として生きるために毎日無数の選択をしているし、誰かのためだからといって自分を曲げたりはしない。