いのちばっかりさ

その金字塔/ 絶対自立(物語です)

発展

思い入れがある一つの思いにとらわれながら

南北を移動しながら

薄緑色のロビーを上から眺めながら

聞き慣れない音楽と汗の匂いに噎せかけながら

ハイランズコーヒーでピーチゼリー入りのティーを飲みながら

僕はここまできた

この空港まで

残された詩は少ないが

私は歩いてきた

父の歩いた道を

薄緑色の家々を眺めながら

壊れたハーブに包まれながら

無力な自分とたくましい時代を見ながら

割られてなくなった遺跡

次々に発着するバスと上り下りする様々な人を見ている

世界に殺された父と

その足取りを踏み切るように気をつけて歩く

常に何かを細やかに展開できるよう気をつけながら

決して父に負けはしない

私は命を失わないで命だけを持っているから

中国の書店でいつも

父の夢を見る

仲間が寝静まったあいだ

うち負かし乗り越えて行くべき存在であるところの

その名前

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気の合わない人と旅行すること

気の合わない人と旅行することはとてもためになる。一週間も旅行していると素がでてしまう。やばい部分はあからさまにやばく露見してしまう。

 

自分が本当にできることと本当にできないことについて考える良い機会だし、比較する対象もそばにいる。見ているところも違うので、話し合うと険悪になることもあり面白い。また私は時間を守らないことが多いので、時間ばかり気にしている人を見ると、せめて私と彼女の中間くらいの人物にはなりたいと思う。そんな感じ。

 

場所から学ぶことも多い。特に今まさに発展しまくっているところは、東京にはない雰囲気だから学ぶことが多い。日本のどこにもないだろう雰囲気とやり方がある。発展している場所におると、一緒に自分も成長して行きたい、そんな気になる。成長して行く人たちと利益を分かち合えるようであれたら。

 

メール書きながら寝落ちするの、誤送信怖いからやめたい。

 

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ふぁ

海外旅行いくのも結婚するのも勝手にやってくださいと苛立ちました。とかいいながら海外旅行行ってることをブログに書いているので人のこと言えないと思いました。

 

僕はとてもはんせいしました。

 

でも自分は苦難としての海外旅行をしているので、また苦手の克服としての海外旅行をしているので、許してやりたいかもあります。そう言うくらいなら徒歩で海外旅行に行けよ修行のようにと思いました。時間と健康を投げ打っている人間に対して「おろかだな」とは思っても「視界に入るな」とはならないであろう。むしろ見ても自分でスルーするだろう。ホームレスの人を見るときのように。私は本当はそこにはいない人間のことを気にすることが習慣だな。いてもいなくてもいいような。

 

次に行く時には徒歩で行く気概を持っていきたいと思います。私は何処かに行きたいんじゃなくて同じところにいるのが嫌なのです。

 

大学の科目登録冊子読んでものかわからなかったので、事務所に1人だけいる親切な人に教えてもらいました。大丈夫です。たぶん。大学での授業は、学習支援室とか言うところに相談しながら参加することになりました。誰に相談しても同じだろとか思ってしまうのは、やはり夏休みで勉強に痛めつけられていないからでしょう。

 

新しいものに挑戦する心を忘れずに、やるべきこともやって行きたい。頭を固くしないように。そんな器用な人間いるかっつーの。

 

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ベトナム人つおい

早起き遅寝のベトナム人、いろんな店が7時に開いている。日本に帰ったらまたやることが増えた。私もスクーター買ってベトナム人のようにハーブとか生野菜をモリモリ食べて頑張りたい。うっし!

 

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東南アジアはお金がかかりすぎる

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主に行くためにお金がかかりすぎる。東南アジアの方が物価が安くても中国行った方がいいなぁ。

 

私の卒業旅行です。3人で移動してるのだが、同じ学生の中にもお金のある人とない人がいて(もちろん私はない人)、ピンチの時お金で時間を買うか、時間で金を稼ぐかの考え方が違って大変。

逃走した

また移動している。

正直移動するのも疲れていると思うのだが、なぜか移動してしまう。

失われた趣味

  私の両親はお互いが30歳になる少し前に結婚した。大学のゼミで出会い恋文を交わしニューヨークの窓を開けた部屋でデートした。そしていつか結婚した(オー、バブリー)。なぜそれを知っているかと言うと恋文を読んだから。正確には、読んだと思っているから。こんな風に書くのは妙かもしれない。けどその恋文が失われた。失われると、それは何回も読んだものなのに、最初から存在しなかったような気がする。

 

 この話はきっともっと言葉を尽くして書くものだろう。でも時間をかけて書きたくない。恋文は確かに失われたのだ。母が捨てたのかもしれないしそうでないかもしれない。ひょっとしてどこか違うところに?そんなこともありうる。

 

 私には罪深い趣味があった。両親のラブレターを読むというもの。一年に一度くらいしか読まない。家に誰もいない時に部屋を掃除し、床を綺麗にし、そこに座って一通一通読む。読んだ後は母の隠し場所に戻しておく。

 

 単なる好奇心とか、いたずらな心の現れだと思ってあまり深く考えてはなかった。そもそもそういう感きわまる感じの趣味を好むから。

 

 今日また読もうと思って探したけど、もう隠し場所にはなかった。あれは物だから、物は失われるのだ。不確かなものなのだとわかっている。

 

  でもなくなって気づいたことは、私があの趣味を心底愛してたということ。久しぶりに泣いた。私はだんだんよくないきがする。

 

  ある時期にある人たちが愛し合っていたとか求めあっていたとかのことは過ぎてしまえば他人からは見えない。私から見れば何をやりあって怒ってるのかよくわからなかった2人がある時期には愛し合っていたということが、私にとって非常に大切なことだったんだとわかった。

 

 それに多分こうも思っていた。両親は途中で間違えた。でも愛し合って求めあっている時期も確かにあった。私の場合には、間違えないで愛を守って行きさえすれば、きっと好きな人と幸せになれるし、きっとなって見せる、と。それは不可能ではなく、正しくやっていけばあのようにはならないで幸せに暮らしていくことができる、と。そして両親にも愛し合うことはできたのから、きっと私にもできる。そして手紙は、その愛があったことを確かめる趣味だったのだ。

 

 人の手紙を盗み読みしておいて、何を書いてるんだという話なんだけど。人の手紙を読むことはよくないことですからね。