いのちばっかりさ

生きている記録。生業。通信制大学。天平の甍、生の短さについて、狼煙

展示を見に行った

通る道の途中で展示をやってたので通りかかったときに見に行った。というか立ち寄った。隣のバーと店内がつながっているのだが、隣のバーで意識高いことを話していて、すごく萎えた。もう子供の頃から意識高い話を聞き飽きたのであるがままの河童の川流れでええやんと思う。心のなかで思ってたらええやんと思う。

意識高いことを言って特になるのはいつでも全力出せたり人とコミュニケーション取れたりする体力のある人だけで、途中で音信不通になったり追いつけなくなったりするような人じゃない。でも展示を見たいのは自分が追いつけないけど思っている人間だからだ。でも展示を企画して実現したのはこういう体力のある人たちなんだと思うとなんか辛い気持ちになった。恩恵を受けてるだけじゃなく自分たちもいろいろやってるんだと言いたいが、何も言えることはない。

 

展示はとても良くて、またあとで見に行くのではないか。展示でもらったポストカードを壁の犬の絵の横に貼った。

 

絵を貼ると楽しいのでもっと貼りたい。

 

本当に体力がある人は体力のない人の気持ちはわからないと思う。誰が自分を応援してても、たとえその人からでもきつい言葉を言われれば死ぬし、落とされれば流れるし、してやられれば寝込む。だけどやってることがないわけではない。

 

実現しようがしまいが実現させるものとして生きることはできる。積み重ねる仕組みを一生懸命考えて毎日を送ることはできる。

 

ケバブ屋に行ったら100円値上げしていた。特に肉が高くなっているという。バイト募集してたので土日やろうかなと思ったが、疲れて死ぬかもなのでやめておいた。こういう個人商店なら会社に知られることもなく手渡しで給料もらえるだろうか?と思ったがそんなことないだろう。昔個人経営の店でバイトしてたとき源泉もらったし。金欠なのでケバブ食べるか迷ったけどおじさんがつまんなそうにしていたし前から食べたかったから食べることにした。前のほうが美味しかったような気はした。

 

物価が上がっていくと、前のほうが安かった、前のほうが美味しかった気がした、前のほうが量があった気がした。みたいなことばかりになるのだろうか?