(母子家庭が原因じゃないけど)母子家庭の子供が亡くなったというニュースを見ると、母がそれに興味を示して、母子家庭ということについて話すことがある。
そのあと一人で机に向かって物思いに耽る。今日もそんなことしていて、私が子供だったころに何の見返りも求めずに私にご飯を食べさせてくれた先生を思い出した。
受験浪人中(宅浪中)にメールで呼ばれ、行ってみると車に乗せてお寿司屋さんに連れていってもらい、お寿司を食べさせてもらった。私は頓珍漢に「車持ってていいなぁ。ブルジョワだな。」などと思っていた。「寿司を食べさせてくれるこの人は金持ちなのだな。」と思っていた。
当時の私は猜疑心と警戒心の塊で、お礼はいっても本心から警戒を解いていなかったから、きっと相手には失礼な様子だったと思う。何かして私の人生につけ入ろうとしているんだと私は思っていた。父の邪心の回し者だろうかなどと考えていた。もしかしてその警戒心さえ完璧に隠し通して、可愛らしいお礼を言えていたかもしれない。まあその可能性もある。
あーいう見返りを求めないことができる大人は、いいひとだなと思う。あれはいいひと。私にもそんな風にできるだろうか。あの時してもらったことは、根本的な問題の解決には全くなっていなかったけれど、今から思い出すと子供時代の大切な思い出だ。
根本的な解決にはならないからと、何もしないことがあるけれど、根本的な解決など問題ではなくて(根本的な問題が何かなんて自分でもわかっているとは限らないしね)、私が相手を思っているという気持ちを、押し付けではなく表すことができれば、いつかそれが前に進む力の源になるようなことがあるかもしれない。
毎日機会あればこの力のおすそ分けをしたい。いま目の前に機会があるのだが、どうやって気持ちを伝えたらいいか、なかなか適切な方法がわからない。あの時先生もそんな風に考えただろうか。ありがとうございます。
それにしてもあの可愛くないとしか言えない子供によくそんな親切心が芽生えましたなー。いまでも一瞬くらいは思ってしまう。「そんな余裕がある、あの人はお金もあって正社員と結婚して子供も健康に育ってるから、余裕があったんだ」って。でもそれだけじゃないんだと私に教えてくれた出会いがいくつもあった。この人生はなかなか良くできている。うまく考えさせて、そういうつまらぬ結論に落ち着かないように人との出会いを用意してもらっている。誰かが書いた人生だとしたら、かなり力作の小説だ。
人生は私に楽はさせてくれないが、いつも考えさせてくれる。
と、いうことを考えたけど寒くてそれどころではないとか思っていることは忘れることにする。お金よりもお寿司食べさせてもらったとかの体験の方が後で思い出すな。匂いとかも思い出す、と思う今日この頃。
とはいえなんか母子家庭のこと書くと湿っぽいしつまんないからもう書くまいと思った。いろんなひとり親の人のブログ読んで書く気になったのですけど。